42 埼玉稲荷山古墳と富士と浅間神社(追記)

#42

資料1 埼玉古墳群が祭祀する富士・火山と浅間神社創建地


 39回で、埼玉古墳群の三基(稲荷山・二子山・鉄砲山)が、特に富士山と、それに遠因する火山活動、及び地殻活動の信仰地を意識して造られていることを説明した。古墳時代には、富士山と火山、そして「水」、「溶岩」、「地脈・断層」にちなんだ祭祀地と、古墳とを関連付けた信仰があったようである。これらから浅間信仰が、稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた年代、辛亥年が定説によると西暦471年であることから、それ以前に遡ることも分かった。

 さらに埼玉古墳群の集中場所の検討を行うと、その場所は、関東平野の中心部に広がる沖積低地に浮かぶ大宮台地の先端にあり興味深い。


資料2 埼玉県の地形区分図(埼玉県地学研究委員会「地球惑星科学実習帳」)


 埼玉平野は、古くからの利根川や荒川などの大規模な分流、変流によって形成された丘陸、台地、川か運んだ土砂が堆積した沖積低地が広がる。さらに縄文後期まで、東京湾は川越市周辺まで入り込んで、近世に至ってもそれ以南は、徳川家康が江戸の都市開発に着手するまでは、多くの湿地が存在していたことは知られている。大宮台地の中心部に位置する、武蔵国一宮の氷川神社にある神池は、大規模な沼地「神沼」が台地の東側にあった名残である。

 埼玉平野を流れる利根川水系の自然流路には、寺社が集中していることも確認され、水害で亡くなった人を弔う寺や、被害を注意喚起する信仰が、古いものであると浅間川に面する8世紀の小松神社(726)の存在などでも認められている(伊藤一正、西川肇2006)。関東平野中心部に住んだ人たちが、洪水など水の災害で苦しんだことを想像することは容易である。そして埼玉古墳群の被葬者たちは、それらの災害を克服し沖積低地の開発に成功した人たちだった。

 先日の諏訪大社御柱祭の内容を伝えた、NHKの放送でも取り上げていたが、関東地方は、全国で一番遅れて稲作が伝わった(国立歴史民俗博物館2009)。政治的背景があるともいわれている。紀元前100年頃である。

 それから数百年後の古墳時代前期、埼玉古墳群の周辺に突如遺跡が現れ、畿内や東海地方西部系土器が出土する。住居跡、墓、そして堰(せき)、水田、畑の跡も発見される。さらに周辺では、S字状台付甕をともなう遺跡がつぎつぎと発見された。S字甕は、伊勢湾深部も湾部が犬山辺りまで入り込んでいたことは知られているが、尾張地方の低地部で出現した土器で、この土器を制作した人たちは低地の開発を得意としていたことが分かっている。埼玉古墳群周辺に住んだ人々に、この尾張の人々が加わり、広大な沖積低地の開拓を成功させたと思われる(高橋一夫2005)。

 関東に稲作が伝播しておよそ400年、埼玉平野の沖積低地をなんとか水田に変えたいと願い、努力を行ってきた人々は、おそらく畿内から来たヤマト政権の協力のもと、ようやく沖積地の開発に成功し、稲作を始めることができたのである。成功を称えられた者たちは、首長となり埼玉古墳群に埋葬された。大宮台地は100年単位で沈下しており、古墳群のある場所は現在より数メートル以上高かったとされる。古墳群は、大宮台地の先端、沖積低地を見降ろす場所にあった。そしてその墳墓が富士を指していたのは何より、富士が大自然を制する神として崇められていたからである。

 埼玉県には、浅間さんに似た富士塚が600以上もあることにも注目である。そのほとんどが、江戸の富士講のものと同じで、近世以降の登拝信仰に由来しているものの、隣接する群馬県には400、栃木には160以上にもなることから、浅間信仰と直結する埼玉古墳群との関係を検証しても悪くない数字である。(富士登山情報2016)


資料3 将軍塚古墳(埼玉古墳群)と伊雑宮

リンク1 グーグル図 将軍塚古墳(埼玉古墳群)と伊雑宮


 埼玉の沖積低地の開拓には、志摩市磯部の人たちも協力していたのではないかと考えている。埼玉古墳群は、大小の墳墓すべてが富士の方角を向いていると理解されているが、そうではない。先に挙げた三基以外はわずかにズレて、他の方角に向いており、中でも首長クラスのもので、復元状態の良く祭祀軸のはっきりしている将軍塚古墳の指す方角を見てみると、志摩市にある伊勢神宮別宮の伊雑宮を指していることが分かる。偏差の影響を受けないグーグルアースでも検証してみたが、祭祀軸は間違いないようである。

 この伊雑宮は、神宮125社の中で、荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ神社で、志摩国一宮、式内の大社でもある。宮の位置する場所は、鳥羽道と、そして神宮からやってくる磯部道の交わる交通の要衝であり、伊雑宮のある森のすぐ南には宮の神田である御神田(おみた)が広がる。これこそ、小規模ながら磯部川(神路川)の形成した沖積低地の中心で、現在でも御神田周辺に水田が広がる。磯部の水田開発は、海に囲まれ、平地の少ない志摩国にとっても念願だったと思われ、畿内以東では最先端だった開拓技術が、埼玉の沖積低地でも活かされたのではないだろうか。


写真1 伊雑宮の御神田(おみた)


 伊雑宮では、毎年夏至の日の二日後、六月二十四日に、ここで御田植え神事を催す。祭り神事では、苗を植える前の水田の中で、非常に目立つように大団扇を付けた竹の棒を、裸の男たちが競争して奪い合う。奪った竹は、海に面した町らしく豊漁をもたらすという。これを神事では「扇取り神事」とは呼ばず、「竹取神事」と呼ぶ。

 全国で竹取神事を探すと、唯一見つかったのが、平安期から続くといわれる関東の古社、阿伎留神社である。現在は東京都あきる野市だが、古くは武蔵国(埼玉)に属したその神社でも竹取神事が行われている。神事では、茅の輪に模した竹の輪を氏子の若者で競争して奪い合うという。そして奪い取った竹を自宅の神棚に供えると、1年間無病息災で過ごせるといわれている。

 伊雑宮と阿比留神社の竹取神事は、東国にあった「竹取物語」、富士の祭神かぐや姫を意識しているのではないだろうか。浅間さんの儀式において、竹を競争して山へ上げること、斎宮周辺の田園には竹一本だけを奉っていることなどと、無関係ではないとも考えられる。

 また伊雑宮で竹を奪い合う様子を見ていると、男たちは田の中で大地を踏みしめているようにも見える。地の中にいる邪気を祓っているのである。そして、そのあと男たちは、「杁突き」(えぶりつき・杁は田を平らに均す道具)を持って宮の鳥居まで練り歩くのだが、この杁突きの「杁」という字、水にちなんだ愛知県(尾張)の地名にだけ使われる字だが、稲荷山鉄剣に刻まれた文字「杖」という字に見えないだろうか。

 「杖」は、鉄剣文字の中で〈杖刀人〉という武人を表す熟語の一部で使われているのだが、刀を武器の原型である棒と解すれば、「杁刀人」は田を耕す人→低地の開拓者となる。埼玉古墳群が、沖積低地の開発に成功した者を埋葬した墓であるなら、その方がふさわしいと考えるが、論を進め過ぎただろうか。稲荷山古墳の鉄剣文字は、研究者が不明瞭だった文字を、上から沿って書いたように見えて、どうにも疑いたくなる。

 余談だが、伊雑宮のお田植え神事の竹の先端に飾られる大団扇はサシバ(翳・うちわ)と呼び(筑紫申真1962)、そこに描かれた宝船は、元は八咫烏に通じる鷹の絵だったのではないかと想像している。うちわのサシバには諸説あるが、伊良子沖(神宮上空)には、現在でも夏至の時期になると東南アジアからタカ科の渡り鳥「サシバ」が飛来することは、バードウォッチャーには有名であり、渡り鳥が大陸を目指すように、太陽船が海の向こうからやって来て大陸方向に向かうことにも重なる。さらに伊雑宮には、渡り鳥である真名鶴が稲を運んできたとの故事もある。鳥のサシバは、別名「大扇」、飛ぶ姿が「鷹柱」(たかばしら)と比喩され、群れで柱のようになって上昇することも知られている(カワセミ会2008)。悩むのは、逆にうちわのサシバにちなんで、渡り鳥に名前がつけられたと考えた方が自然とも思われ、迷うところである。



引用参考文献

・埼玉県地学研究委員会「地球惑星科学実習帳」、2016年

・伊藤一正、西川肇「衛星データを利用した利根川の流路変遷に関する研究」

 土木学会論文集G、2006年

・国立歴史民俗博物館「近畿以東の地域における弥生文化の波及年代」

 (弥生農耕の起源と東アジア・ニューズレター11)、2009年

・高橋一夫「鉄拳銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群」新泉社、2005年

・管理人MASA「日本各地のふるさと富士」(富士登山情報ROUTE5)、2016年

・「三重県の地名」日本歴史地名大系24, 平凡社、1983年

・伊勢志摩きらり千選「伊雑宮御田植祭」伊勢志摩きらり千選実行グループ

・鏡味明克「地名学入門」大修館書店、1984年

・筑紫申真「アマテラスの誕生」角川出版、1962年

・八王子・日野カワセミ会「サシバに関する基礎研究」、2008年

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