41 志島浅間祭と京都上賀茂神社の立砂

#41

写真1 富士山に見立てた円錐型の砂盛り


 志摩市の志島では、夏至の翌週に浅間祭りが行われる。当日は、あいにくの大雨だったが、綿の下着、ステテコの白装束にこだわった道者の皆さんは、合羽を着るのかどうかで悩んでいたが、やはり始まってみると白装束が多かった。

 ここでは、「広岡の浜」と呼ぶ海岸に出て神事を行う。海に入って身を清める、いわゆる垢離取りを別として、現在伊勢志摩に残る浅間さんで、海岸に出て主要な神事を行うのは、この志島だけである。さらにこの地の浅間さんの特別なのは、円錐の砂盛りを造り、小弊を立て、それを富士に見立てて奉っていることである。富士信仰を、これほど具体的に目に見えるように奉る浅間さんは珍しい。砂盛りは前日に準備している。昨日はよく晴れていたので、とても綺麗な富士山ができたそうである。道者の方が、嬉しそうに語ってくれた。

 その富士の砂山は最初、完全な円錐でなく、本物の富士のように頂上が平たく、儀式の中で道者らが波際から運んだ砂で、頂上部を積んで完成させる。上部の色が変わると、なおさら雪をかぶった富士に見えてくる。それとも、溶岩を流す火山の風景だろうか。または完全な円錐を完成させることに意味があるのかもしれない。

 以前の写真を見ると、道者は砂団子を作って、それを富士の上に乗せていたが、今年は少し動作が違うようである。また砂は何の意味か分からないが、9回の数を持って、そこに運ばれた。


写真2 入念に造られた砂盛り土台に立てられた幣と幟(のぼり)


 大切な竹弊は、富士講の幟といっしよに、志島にある部落の数、五本を、祭りの前日から念入りに準備した、足元、長形の砂盛り台に立てる。砂浜の地面に直接立てられることはない。その長形の砂盛りは、大相撲の土俵のように面取りも行われている丁寧さである。しっかりと造作されている。ただ単純な幟の土台やお供え台にしては、手が込み過ぎな気もする。この弊の土台となる砂盛り自体も、神聖なものと考えているようである。著者は、弊は地震を押さえつける心御柱、または鉾を見立てていると述べてきた。全国には、多くは石だが、古い鉾立の台がいくつも残っているという。志島では、その鉾立の台を、砂盛りで作っているのかもしれない。

 志島では、2007年に、隣村の甲賀との境にある志島低地と呼ばれる場所で、活断層研究センターが大規模地震の痕跡を探すため、ボーリング調査を行った。調査結果によると、この場所からは3000年前からの記録が採取でき、過去約1000年間では、6枚の海洋性の砂層が明確に検出されたことから、大規模な津波を6回は1000年前から受けている可能性が指摘されている。

 志島の浅間さんは現在、漁協が主催していて、先達の拠点だっただろう海蔵寺の薬師堂はほとんど使っていない。薬師堂は、いわゆる疫病厄除の信仰の「薬師さん」が主な使い方だったと思われる。また過去の富士登山の間、家族が籠っていた志島神社も祝詞を上げるのみである。けれど、そんな現在でも志島の浅間祭りでは、国府から続く白砂の美しい浜に出て行う儀式が、昔のまま続けられている。


写真3 上賀茂神社の砂盛り「立砂」


 砂盛りには、現在でも一般に建築の地鎮祭で用いられるように、地鎮めの意味があるようである。砂を円錐に盛る、富士型の造形で共通している。

 京都の上賀茂神社の砂盛りは、立砂と呼んで、よく取り上げられる砂盛りのひとつである。二の鳥居をくぐって直ぐ、本殿の手前にある細殿と呼ばれる、神祭事を執り行う建物の前に造られている。高さは1メートルはあるだろう。結構な大きさである。

 千年以上続く古代からの神社の祭り事であるので、砂盛りの上に松葉が挿されているのを見て、神の依代であるなど様々な意見があるが、鴨川上流と高野川との合流点、上下ふたつの賀茂神社の鎮座の位置をみれば、古くから鴨川は大雨の度に洪水、氾濫を起こしており、平安京以前からの京都盆地を拠点としていた賀茂氏の氏神である賀茂神社は、鴨川の洪水・氾濫の鎮めを行っていたことが分かる。平安期の専制政治で有名な白河法皇が、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた逸話が伝わる。


動画1 上賀茂神社 重陽神事・鳥相撲(Lively Kyoto)


 上賀茂神社には、台風の季節である九月九日に、重陽神事と烏相撲いう一体となった行事がある。重陽神事についてだか、上賀茂神社の説明には、こう書かれている。

九月九日は、九という「陽」の数字が重なる事から「重陽」と云われ、古来宮中他で五節句の一つの「重陽の節句」として菊酒を飲み、菊花に付いた朝露で肌を 拭う等して災厄を祓った日でもある。 当神社では当日は神前に菊花を供え延命長寿・災難除を祈願致します。 尚、当日は菊酒の無料接待があります。

 また、重陽神事に引き続いて行われる烏相撲については、こう書かれている。

当神社御祭神の外祖父賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神武天皇東征に際し、八咫烏(やたがらす)と化(な)って先導された故事があり、烏との結びつきが深いのです。 禰宜方(ねぎかた)、祝方(ほうりかた)に分れ、児童による相撲が取られます。

 これらの神事は現在、神事の真ん中に置かれた立砂の存在、演者の横飛び動作、「カーカー」という鳥の鳴き真似などが、意味の不明な特殊な神事として扱われているが、次第はおそらくこうである。ここには書かれていないが、この神事での主役は、賀茂神社に奉仕する天皇家の未婚の皇女である斎王代である。代とはするが、斎王自身をさしている。ちなみに、この斎王制度は伊勢神宮に使える斎王と同様の制度である。

 重陽神事は、この斎王代が天皇家の家紋である菊を添えた酒を皆に振る舞い、神殿の高座に座し、立砂を舞台装置とした物語披露を観劇するという形式をとっている。つまりこの神事は、天皇家からの賓客であるが、未だ幼い斎王に、ヤマト王権の先発として働いた賀茂氏の東征武勇伝を、小芝居と子供相撲で見せて聞かせたという筋書きである。

 東征の武勇伝はこうである。最初の二人の武人は、八咫烏と異名をとった賀茂建角身命の率いたヤマトの軍勢であり、小さな子に分かり良く、鳥の様子を模した横っ飛びで、カーカーと鳴きながら現れる。片方は熊野の八咫烏だろうか。戦いに出るために武器を持つが、斎王が怖がらないように、おもちゃの太刀と弓である。命の軍勢は、まだ身の丈の低い子供の斎王からすれば、目を見張る程に大きな円錐形の山(立砂)、すなわち富士火山を神とする東の国にやって来て、そこで戦いの比喩である相撲を取って勝敗を決める。立砂のもう一つは葦高山(愛鷹山)である。そして勝負の結果、富士を神とする国と友好的な関係を築いた命は、富士火山の形の砂盛りを使った、地鎮めの呪法をヤマトに伝えたという物語である。儀式を通じて、その真ん中には常に、東国の巨大な円錐形の火山、富士を表す立砂が鎮座している。


写真4 斎王代は細殿から立砂ごしに八咫烏の寸劇と、その向こうで行う相撲を見る


 祭りの本当を邪魔するのは、現在の神事において、斎王代をつとめる女性が立派な成人であることと、お酒は二十歳からという現代の決まり事であって、重陽神事が、幼い斎王代に、賀茂氏の武勇伝を伝える神事であるらしいことは、比較的容易に分かる。場内のアナウンスは参考程度である。そもそも節句というのは、桃の節句、端午、七夕など、概して子供の行事であり、この重陽の節句も多分に漏れない。横飛びしてカーカーと鳴くのを演じるのは、子供である方が自然でもある。

 斎王の多くは、まだ少女である頃から賀茂神社や伊勢神宮に赴き、途中で家族の不幸があるなど、穢れが生じない限り、立派な成人となるまで仕えた者も多かった。斎王は任命をされると、禊を繰り返し、そのままその任に着き、世間に姿を現さない者も少なくなかったので、都の人が再び斎王の姿を目にしたのは、数年が経ち、立派に成長した斎王が帰って来てからが多かった。この場合、都の人の持つ斎王のイメージが成人であっても止むを得ない。

 また付け加えるなら、斎王には、以前触れたように、富士の祭神かぐや姫のイメージが投影されていることも見逃せない。この年齢のズレは、物語の中でかぐや姫が急に成長することと、少女の姿だった斎王が帰って来てみると大人になっていたという事象とオーバーラップする。

 ちなみに相撲は勝負事を意味する他に、元々は「相撲節会」と呼ぶ、平安期の宮中の地鎮め儀式が起源であり、四股などの踏みしめに意味がある。地面を踏みしめて、地中の悪霊を祓っているのである。取組前に子供力士が境内の小川に入っているのは、ここでもまた鴨川の川底を踏みしめることで、洪水の鎮めを行っている。賀茂両神社では、「御手洗祭り」、雅楽歌舞の「東遊」など、〈踏みしめ〉にちなむ神事が他にも行われている。


リンク1 グーグル図 花折起震断層と立砂


 いまさら言うまでもないことだが、京都盆地の東山には、神社や寺が集中していて、これも周知のことだろうが、その東山の下には、大きく花折起震断層と呼ばれる活断層が通っている。ここで改めてグーグル図に、京都東山の地中を走る花折起震断層を描き、そこに、著者の知り得る砂盛りのある寺社の位置をポイントしてみると、砂盛りを行う寺社の多くも、東山を通る断層上と、その断層と平行に流れる鴨川沿いに集中しているのが分かる。慈照寺(銀閣寺)、法然院、永観堂禅林寺など、その砂盛りの知名度も高い有名寺院も多い。

 東山の場合、室町以降の京都寺社文化が東山に集中したからで、それらの寺社は装飾としての砂盛りを庭園に施し、たまたまその下に活断層があったとも考えられるが、是川紀子氏によると、日本でも鎌倉期頃にはすでに、断層について、「筋、脈、地脈」などと呼んで、断層を意識する概念は既に存在していたという。また、そこに神社などを置いて、注意を喚起する概念もあったとされる。そしてさらに、東山の庭園文化においては、断層が地面を揺らすものと意識しながらも、立地の環境の中に、崖など、断層がもたらす景観を取り込むことも行われていたともいう。そこでは、庭園に段差や小さな滝などが取り込まれ、その場所の特徴、つまり断層を生かしたデザインが楽しまれていた。

 そのような中で、砂盛りの場合、元々断層が起こす地震を鎮める意図の標(しるし)だったが、その断層がもたらせた賀茂川の花崗岩質の白砂などで、月光に映える表面を獲得し、さらにその富士型円錐の造形が磨かれていったともいえる。断層を使った京都の景観つくりは最近、NHKの番組でも取り上げられている。


写真5 銀閣寺の円錐の砂盛り「向月台」と手前の広大な「銀沙灘」(ぎんしゃだん)


 銀閣寺の砂盛りは頂部を平らにし、自らが富士であることを語る。波を表現する銀沙灘ごしに見る姿は、志摩市の東岸から遠州灘ごしに見る富士の姿そのものである。東山文化の典型ともいえる枯山水の庭を持つ銀閣寺は、それ以前その場所に、足利義政が作った別邸である東山殿があり、さらにその前の時代には浄土寺と呼ばれる寺が平安中期から存在していて、わざわさその浄土寺を退かせて足利の別邸を作り、そこに銀閣寺を建てている。現在でも銀閣寺のある慈照寺の山門の北側には、その浄土寺の一部が残る。また、砂盛りを持つ東山の北部にある鷺森神社、八大神社でも室町以前の創建である。室町の東山文化以前から、この一帯には砂盛りある寺社の分布は多かったと言える。

 庭に小判型の砂盛りを配し、紅葉で有名な永観堂禅林寺が、貞観五年(863)に清和天皇から勅願寺とされたのは、その年に起こった越後地震を由来としているだろう。その年は、地震、飢餓、インフルエンザが猛威を振るい、ついに祇園祭の起源となる京都御霊会(ごりょうえ)が催された特別な年でもある。清和天皇は、前帝文徳が地震が原因のように死んだ後を受け帝位に着いたが、自身も「大地に呪われた王」と呼ばれ、一年目七回、二年目五回、三年目十四回、四年目八回と京都地震を経験し、五年目の貞観四年には、十九回もの地震に悩まされていた。御霊会の翌年の貞観六年には、富士山の噴火史上、最大の貞観の噴火も起こっている(保立道久)。禅林寺に伝わる伝承によると、そこにある小判型の砂盛りの上に付けられた市松模様は、天皇からの勅使に踏まれることで、厄災の祓いの機能も果たしていた。ついでながら、砂盛りを踏むことに付け加えておくと、富士と地理的対極にある出雲大社では、最大の行事である遷宮行事では砂盛りを掃き清めるし、年中行事の真菰神事では真菰草で踏みつけることが伝わる。

 砂盛りの集中は、一概に東山文化との偶然の一致と片付けられないようである。つまり、これらの砂盛りは、地震災害を意識し、その鎮めとなるように置かれた思われる。その当時、まだ内裏周辺に家が集まっていた平安初期の京は、極端に地震が多かった。銀閣の以前にあった浄土寺は砂盛りをして、地鎮めに鎮座した可能性は十分に考えられる。向月台の文献的記録は近世からしか残っていないが、恐らく銀閣寺の向月台は、浄土寺の砂盛りを引き継いだあと、地鎮の目的は忘れられものの、普遍的な美しさを持つ富士型の造形を枯山水に使い、極限にまで洗練させた。月光に映える白砂の美しさは、偶然断層に沿って流れる賀茂川河原の砂の地質が、この地域唯一の花崗岩だった副産である。前回取り上げた火山文化だが、銀閣の向月台は、芸術的にいえば、遅咲きの火山文化だったとも言える。


写真6 富士山は、東海道を歩くものなら誰の目にも飛び込んでくる、日本最高峰で最大の円錐型火山である


 富士山の西部、ちょうど静岡県東部から神奈川県西部周辺、南足柄市、秦野市、伊勢原市、平塚市、大和市などでは、お盆の時期にお供えと称して、家や墓の前に砂盛りを作る風習が残っている。ごく小さなものだが、30~40センチ四方で竹を組んだ枠に砂を入れて飾る。なかには枠を使わず、砂だけを盛る場所もある。「砂盛り」や、「砂山」、「富士山」と呼ぶ地域もあるという。正確な起源は明らかでないが、その周辺と重なる一帯には、神縄・国府津-松田起震断層と呼ばれる活断層が通る。数万年前までさかのぼる断層だが、調査によると最新の地震履歴は、1150年から1350年という。時期でいえば、平安末期から足利尊氏の活動した室町期である。

 畿内の話に戻るが、奈良盆地でも盆地の東側に寺社及び古墳など信仰拠点が集中し、その下に東縁起震断層が通っていることは知られている。一方で、古い奈良盆地が池や湖に覆われ、その水際の道が山辺の道、信仰の道となったとも言われている。だが水に侵されない高い場所を祭祀の場とするならば、高所は、北、西、南側にもあったとも考える。若草山の麓の東大寺、興福寺、春日大社に始まり、天理市の石上神宮、纏向遺跡、箸墓古墳、そして日本最古の神社と言われる大神神社。すべてが奈良盆地東縁起震断層の上に位置していることから、おそらくこれらも、地脈概念のもとに建てられたと考えた方が妥当である。


写真7 天理市備前町の備前橋付近が、旧石上神宮領の最南端


 物部氏を奉りヤマト王権の武器庫の役割もあった、天理市の石上神宮では、神社の西側約五キロ四方の広大な土地を社領としていた。神宮では、その社領の土地全体の鎮めや祓いの為に、八つの氏子神社に砂盛りをし、榊を挿した榜示(ぼうじ)を結んでいた。現在もその名残は十月に行われる神事に残り、榜示浚(ぼうじざらえ)と呼ばれ続けられている。写真は旧社領の最も南に位置する天皇神社の榜示だが、ここではより正確な所領境界を示すように、境内から離れた、ただの道端に砂盛りが行われている。

 東大寺の修二会、別名「お水取り」は有名だが、興福寺で行われる修二会でも、境内の地蔵院に立砂が盛られ、魔が入り込むのを祓うという。大神神社では、ご神体の三輪山そのものが円錐の神奈備である。以前は境内でも砂盛りを行っていたのかもしれない。現在でも、砂盛りを作る要領の書かれた説明書付「清めのお砂」が、地鎮祭用に販売が好調のようである。

 

写真8 法然院の砂盛りは、長方形の砂盛りを石畳の両側に並べる


 あちこちするが、東山の法然院である。法然院では、白砂壇(びゃくさだん)という長方形の砂盛りを造り、山門から続く石畳の両側に配置している。砂盛りの表面は、角が立つほどの面取りであり、究極に洗練され、志島の海岸で見た砂盛りの素朴さも、鉾立台の意味も、そこにはもうない。両側の砂盛りには、水をイメージした円の模様が描かれ、砂盛りの間を通った者は、その水で心の清浄が保たれるという。哲学の道沿いにあるだけあって、単純な円錐造形から、よくぞここまでたどり着いたものである。



引用参考文献

・江崎満「伊勢志摩の富士信仰を訪ねて・大日如来探訪」鳥羽市郷土史会、2014年

・小松原純子、岡村信行(活断層研究センター)

 「三重県志島低地における津波堆積物調査」活断層・古地震研究報告、2007年

・岡田精司「古代祭祀の歴史と文学」塙書房、1997年

・五味文彦「王の記憶 王権と都市」新人物往来社、2007年

・河角龍典(立命館大学)「歴史時代における京都の洪水と氾濫原の地形変化」

 京都歴史災害研究 第1号、2004年

・片平博文(立命館大学)「賀茂川左岸地域における洪水の痕跡」

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・是澤紀子(名古屋工業大学)「断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究」

 (財)日比科学技術振興財団、2008年

・上賀茂神社(賀茂別雷神社)HP

・京都観光協会(Lively Kyoto)「上賀茂神社 重陽神事・鳥相撲」YouTube動画、2014年

・上井久義「日本古代の親族と祭祀」人文書院、1988年

・森郁夫、甲斐弓子「鎮めとまじないの考古学・古代人の心」雄山閣、2013年

・内館牧子「女はなぜ土俵にあがれないのか」 幻冬舎 、2006年

・産業技術総合研究所「断層データベース」HP

・梅林秀行「ブログ京都高低差崖会」

・京都埋蔵文化財研究所「浄土寺・東山殿から銀閣寺・発掘ニュース61」、2003年

・京都観光NAVI HP

・保立道久「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年

・ブログ里山再生計画「砂盛り」

・奈良県史(第5巻)神社遍、名著出版、1984年

・大東敬明(国学院大学院)「寺院儀礼における中臣祓」、2016年

・三輪明神・大神神社HP「清めのお砂の撒き方」

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