40 火山文化の美 古和浦浅間祭り

#40


 古和浦の浅間祭りは、浅間さんの中でも異質な美しさを持っていると思う。特にこの梵天の美しさには、惹きこまれるものがある。純白紙に丁寧に切り目を入れて編み込まれたこの梵天部分は、八柱神社の本殿に次ぐ神聖な場所である正面拝所に、祭りが始まるまで大切にしまわれている。それが弊に飾られるのは、祭りが始まるほんの直前である。

 梵天は、御幣のヌサとされているが、それならば、古和浦の梵天が、丸く笠状に形を整えているのは何故だろう。ちょっと飛躍するが、この梵天は、古代の貴人の頭上に掲げられた蓋(きぬがさ)に見えないだろうか。蓋(きぬがさ)は、古代史研究では貴人の日傘と解釈されるのが定説だが、松阪市の宝塚古墳などから出土した蓋からは、その傘の貴さの元は、当時の聖なるイメージだった火山噴火を模したものと考えると自然である。

 続日本後記に記される、承和五年(838)に伊豆神津島が噴火した記事描写から想像を膨らませると、この祭りの稚児たちは、地震を鎮める踊り竹を操る火山童子達であり、神々の使いである。そして、その童子らの行列に貴人並に手厚く掲げられたのが蓋である梵天だった。相当偏ったが、そうして見てみると、梵天は、火山噴火そのものにも見えてくる。我々は、古和浦の浅間祭に、かつてあった火山文化の美を垣間見ているのかも知れない。



 朝、祭の準備が行われる八柱神社の境内に入ると参拝者を迎えるのは、美しく銅板で化粧された鳥居である。木製の鳥居であると、ここは海に近く、防食ためにこのようにしたのだと、早とちりしてしまいそうだが、それならば石の鳥居にすればいいはずである。銅板加工の方がコストが嵩む。事実、この手前にある鳥居は石造りである。これは、わざわざ鳥居の表面を銅板で繋いで、節をつけるようにしたのである。つまり、この鳥居は、富士の祭神である竹取物語のかぐや姫を連想するように、竹をイメージして造られている。おそらく数十年後には、一部はすでにそうなっているが、表面が酸化されて、青い、本物の竹より美しい鳥居となるように最初から意図されている。竹には、地面を深く広範囲に根を張るため、地固めの意味も込められた。

 さらに境内を見渡すと、細かく揃った小さな砂利が敷き詰められた地面のあちこちに、ちょうど子供の腰掛けによさそうな石が据えられているのが分かる。神社をよく知る人なら、それはお供え石だと怒られてしまうところかもしれないが、よく見ると、それらの石は境内の、これもそちこちに植えられる神木の近くに据えられている。

 今回の祭の準備では、梵天の飾られた竹弊が無造作に境内の神木に立て掛けられていたが、本来なら、幣の根元を腰掛け石に置いて、上部を神木に寄り添わせるものだろう。つまり、腰掛け石か、お供え石かと思っていた石は鹿島神宮と同様の意味を持つ要石であって、富士山本宮浅間大社の休み石(鉾立石)と同じように、その昔は、村内巡回の始まるまで、幣は要石を押さえつけて、神社の境内の地鎮を行うという役割が与えられていたはずである。そもそも、境内の敷地に統一感がないように配置されている神木の意味を考えれば、答えは自ずと出ていた。他の祭事には如何にも邪魔になるそれらの神木には、そのような意味があったのである。古和浦の浅間祭の弊は柱立て思想をもって、この八柱神社と一体となってこの地の地鎮めを行っているのである。



 過去の祭りでは、稚児によって演じる色々の役割が分担されていたのかもしれない。この少年の化粧は、殆どそのヒゲ面からは地震鯰だろうと想像はつくが、はたまた、この日ばかりは、神様か、道祖神の化身なのだろうか。年頃の少女などは、その眩しさからかぐや姫と配役されていたかもしれない。他の村では大人が化粧するのだが、コノハナサクヤヒメの姉のイワナガヒメになったり、恵比寿のようになって昔流行った言い方だがハレ場を演出したのか。

 ただ、変身ということに意味を見つけるならば、様々なものに変わっているところをみると、祭りの形式を過去から変化させている形跡を伺うことが出来る。志摩地方の浅間祭りは、富士登拝の信仰が習合するなど、災害教訓の伝承が薄れ忘れられていくのと同時的に変化していったのである。



 脱線するが、神宮の遷宮が二十年に一度の開催であるのは、過去から様々な説が論じられ、最近などは建物の隙間にまでその理由を見出そうとしているが、持統期の私幣禁断、国家宗廟化でその意味が忘れられてしまったものの、そもそもは災害教訓の忘却防止機能だったのだと考えられる。二十年に一度の富士火山の鎮め儀式は、参列者に災害の恐ろしさや対処の必要性を説いていたのである。古代の人は、二十年を人間の標準的な災害教訓の忘却期間であるとした。列島を貫く中央構造線上にある神宮は、災害伝承の中心的な存在だったと思われ、当初は在地の小規模な祭祀場であったかもしれないが、その信仰理念は現在より純粋なものだった。



 祭りでは、前日村人に配られた小さな弊を、当日の朝までに親に連れられた子供が浅間さんの社に供えることになっている。写真は、幣で埋まってしまった社である。祭には親を伴う子も多く、子供の健やかな成長を切に願う親心が、この祭りを盛大に継続させているのだろう。この浅間祭りは、子供が主役の祭りである。加えて説明するならば、この祭りの原型は、つい2、30年位前まで日本のあちこちで行われていた子供の行事である、「亥の子」であると思われる。

 亥の子とは、藁で作った太い棒を、歌に合わせながら地面に打ち付けたりするもの。丸い円盤型の石に、放射状に何本もの紐を伸ばして、周囲から皆で紐を持ち円盤を上下させて、これも地面に打ち付けるものなど。木遣歌の木遣にも似ている。こうして子供たちは村内を練り歩き、地面を叩く。そして行く先々で菓子や猪(いのしし)の形をした餅をもらうことから、亥の子と名前が付いたものである。ただし、もらい餅と亥の子の名前は、後からのもので、行事に餅の販売をセットした江戸期の和菓子屋などの営業努力だと思われる。近頃であると、広島のある都市が、町興しだろうか、巨大な亥の子の仕掛けを作ってイベントを行っているそうである。



 古和浦では、笹竹を束ねたものを踊り竹と呼んで、これから何本も紐を伸ばし、周囲から稚児がその紐を持って、浅間歌に合わせて、宙に上げ、地面を叩く。昔は、村中を踊り竹でお祓いしたそうである。柳田国男は、この亥の子の祭りを、土地の力を強くする呪法であると指摘し、本来なら季節に関わらず時期の特定のない子供の祭だが、いつしか稲刈りの後に行われるようになってしまったと説明した。

 よくこのように地面を打つ祭の神事は、もぐら打ちや十日夜などといって、田植えや農事に関連するものと決めつけられることが多いが、中世からの漁港である古和浦の祭りに、農事は辻褄が合わず、ここでは具体的に、地震とそれに伴う津波による悲惨な被害への厄除けとして行われた神事として正確に捉えたい。

 民族学者の大林太良氏は、日本の鯰が世界的な地震避け伝承、世界魚の類型であることを説明し、また他の伝承種類として、地面の中にいる地震の神様に自らの存在を知らせ、地の揺れを止めさせる為に地面を叩くという伝承も、世界的に広がっていることを説明している。



 そうして見てみると、日本でも地面を叩く行事はあちこちに見られる。福井県の闇見神社にはかつて、大御幣に荒縄を結びつけて地面に打ちつける古和浦とそっくりな行事があり、周辺伝承から考えると、その行事はおそらく701年の大宝地震に起源があったようである。この地震で、日本海に面する近畿地方北部沿岸は、大津波で甚大な被害を受けている。鳥羽神島のゲーター祭りにおいても、輪を竹竿で持ち上げることに注目してしまうが、以前は、輪を地面に降ろした後、その輪を竹で叩きつけることが祭りの主体だったという。地面を叩くことは、地震鎮めに繋がっているのである。

 高知大学と名古屋大学の減災連携研究グループは、南海トラフ地震など巨大地震の履歴を明らかにするために各地の調査を行っている。2013年と2014年には、古和浦の先の海岸近くにある座佐池で、津波堆積物の調査を行った。この調査で、池にはおよそ7500年前からの履歴が残っていることが分かり、そこからは、6回の明瞭な砂層を持つイベントと、数回の不明瞭なイベントが確認された。古和浦周辺は過去に、巨大地震だけでも、6回以上の経験をしていることになる。



 太鼓の音と、高々と上がる目立つ梵天に村人が集う。孫の顔を見ようと、普段は外に出ない年寄りも表に出てくる。そして、神々の使いの行列に惹き寄せられた村人は、次々に行列に加わっていく。昔は、梵天ごとに踊り竹があったという。どれだけ華やかな、浅間祭りが繰り広げられていたのだろう。



 祭の最後、山道を駆けて登ってきた稚児たちは、無事に小高い浅間山の里宮にたどり着いた。大切な童子たちを見守るように蓋(きぬがさ)と、親たちが周囲を取り囲む。ここでは、急ぎ駆け上がってくることに意味があるし、この場所にも意味がある。現在でもここは、村の先人が任意に選定してくれた南伊勢町の津波一時避難場所である。標高は20メートルある。祭りの行程は、海に近い八柱神社に始まって、浦の中心を通り、住民の居住区を経て、浅間山にたどり着く。その道程は津波の避難経路を示している。つまり、古和浦の浅間祭りは、津波の避難訓練を行っている。この祭りは、遠い過去から災害の教訓を伝えている、非常に貴重な文化遺産なのである。

 宮司は、稚児たち、村人の無事を祝うように、祝詞を浅間さんに宣上した。



引用参考文献

・松阪市教育委員会「宝塚古墳」、2005年

・保立道久「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年

・森田悌「続日本後紀(上)」講談社学術文庫、2010年

・柳田國男「柳田國男全集14巻・神樹篇」ちくま文庫、1990年

・同「柳田國男全集16巻・年中行事覚書」ちくま文庫、1990年

・大林太良「神話の話」講談社学術文庫、1979年

・萩原秀三郎「龍と鳥と柱」(龍の文明史)八坂書房、2006年

・萩原秀三郎「神島」 井場書店 、1973年

・高知大学、名古屋大学 減災連携研究センター

 「紀伊半島東岸の芦浜池と座佐池における堆積物からみた津波履歴」

 日本地球惑星科学連合ミーティング、2015年

・南伊勢町「南伊勢町津波ハザードマップ」三重大学大学院工学研究科

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