43 立神浅間祭り
写真1 海の中に立てられる竹弊と立石
立神の浅間祭りは、英虞湾というサミットでも紹介された日本を代表する美しい景観を持つリアス式海岸の、最も奥の入り江の海中で行われる特殊な浅間祭りである。他の浅間祭りのように、山を意識するものでもなければ、富士登拝もそれほど意識されていない。伊勢志摩から熊野灘南端の勝浦まで、海に面する浅間さんでも、確かに大きく海に関わるが、それらはほとんどの場合、垢離を取る(みそぎ)のためである。浅間祭りでは通常、竹の弊は山、もしくは小高い場所へ上げられる。実際、立神の浅間さんでも、大日の丘と呼ぶ、竹弊を上げるのに好都合な大日如来を奉る山を持っている。それにもかかわらず、わざわさ海の中に竹弊を奉る立神の浅間さんは、美しい海を祭祀することに特別な意味を与えている。この他にこのような形式の浅間さんを強いて探すとするなら、鳥羽の堅神か、もしくは斎宮にほど近い場所で、斎王が禊をした、明和町大淀の港にある浅間さんだろうか。大淀には鳥居も何もなく、海中に一本だけ竹弊が奉られている。
写真2 昨年のフンドシが下がったら、翌日が祭りである
立神の浅間祭りの行われる前日には、祭りを行う立石神社の石の柵に、翌日の開催を知らせる昨年のフンドシが掛けられる。元来は旧暦の五月二十八日だった。現在は新暦六月の夏至の後から七月の初旬をめどに、午前十一時前後、干潮が一番大きくなる日を選んで行われる。近頃は勤めの関係で、休日に行うこともある。日程は一か月程前に分かる。今回は七月三日、土曜日に行われた。
祭りを取り仕切る前立(せんだつ)は、富士山の登拝を行ったことのある長老である。立神村は東西南北に配(地区)が分かれていて、各地区から一家の夫婦が参加することになっている。立神では、女性も祭りに参加する。女人を禁制とする修験道の決まりごとと、少し様子が違うようである。四つの参加の家の中でも、浅間さんに一番遠い家が宿元になり、祭りの準備の場所とする。以前は宿元に選ばれることは名誉なことで、宿元のご婦人は、この祭りのために着物を仕立てて、「手に日傘を持つ正装」で参加したという。
写真3 宿元の家の床の間に祭壇が設けられる
準備は、以前は祭りの一か月ほど前から行っていたが、今は簡略されることも多く、二、三日前から行われる。まず立石神社の海中に立てられた竹を取り換えるので、新しい竹を村の東の方角から採ってくる。場所は特に決まっていない。竹は大弊の二本と、小幣を月の数、十二本立てる。今年はうるう年なので、十三本である。長さは大幣が約十六米、小幣が七米くらいである。大弊をほぼ一本のように束ねて二本で立てるのは、太い竹が調達できなくなったのか、二本の方が強度が高まるためにそうしたのか、はたまた、二本ということに意味があるのか分からない。竹に幣(ぬさ)の紙垂(しで)を付ける。潮の引いた海に入って、竹を立てるために地面を抉(こじ)るので、鉄のバールも神事の準備品のひとつである。紙垂が括られる。
それから餅をつき、供え物の鏡餅にする。餅は配り餅用も用意していたが、現在は買ってきた饅頭である。神社で撒くために、お米、箸くらいの長さに切った藁を八十本程、また桑の葉、お菓子などを準備する。輪金、数珠、白装束、下駄、杖、麦わら帽子、扇子や、祭壇の掛け軸、燭台、線香立ての香炉、供え盆、供え膳、花瓶などは以前からのものが引き継がれている。ほら貝は、世話役の番条氏が用意したものである。
写真4 全員で祝詞を上げる
祭りの当日も、浅間祭りは宿元が起点である。宿元の玄関は竹で組んだ額縁に囲われ、注連縄で結界されている。当日の朝は、慣れないほら貝の練習や、立石神社などにバケツに汲んだ手水の準備もあり、大変である。また、当日までに用意した、竹弊やお餅などの供え物、飲み物などをリアカーに乗せて引くので、その準備も忙しい。昔はリアカーはなかった。準備の最中にも信心のある近隣の家から心付けが次々に届けられ、 そのお返しに饅頭を配るのでゆっくりしていられない。前立と八人全員で、宿元の床の間に掲げた「富士浅間大菩薩」の掛け軸に、二礼二拍手。祭壇には、ロウソク、果物、お菓子、ご飯、お神酒である。前立が導師となって浅間さんの祝詞を上げ終わると、いよいよ出発である。
写真5 左の女性の頭にあるのが「ゆり」。昔は女性全員が「ゆり」で供え物を運んだ
祭り行列の先方も、前立が行う。 先方をはじめ男衆全員で、一番太くて重い大弊を担いで立石神社までの道中を歩く。身長の高い順に並ばないと、全員で担げないので並び方も大切である。女性も、荷物をリアカーで運ぶようになる以前は、全員が「ゆり」と呼ばれる大きな盆に供え物を入れて、道中の間中、頭に乗せて運んだが、現在は出発と到着の時、記念的に宿元の女性が写真撮影だけしている。「ゆり」は、女性を百合の花に例えたか、頭に乗せるので盆の供えものが揺れたからか、由来は分からない。ちなみに、「ゆり」という言葉は、江戸時代には地震を指す言葉としても使われた。
女性が祭りに参加することにこだわるが、その女性が着物と日傘の正装をし、「ゆり」という特別な道具を持って、祭りの中で一定の役割を果たしていることにも注目しておきたい。この祭りは富士信仰の祭りである。昔の祭りにおいて、富士の祭神であるかぐや姫が行列に加わり、貴人であるかぐや姫の頭上には日傘が掲げられていたとしてもおかしくはない。笠は、独立峰である富士山ならではの気象現象の、笠雲にも繋がる。笠雲は、富士の頂に笠が掛けられたように雲がかかる状態を指し、刻々と表情を変える富士の特徴的な姿で、富士山文化の重要な要素である。宿元の玄関を、わざわざ竹を使って囲うことも、一連であるかもしれない。しめ縄は、通常玄関の建具の上部に付けてもいいものである。
写真6 平成7年当時、宿元の女性は着物姿(番条氏提供)
宿元のある場所は、村の中でも浅間さんに遠い場所なので、道中が長く途中で心付けをたくさん頂くのに都合がよいとのことである。 浅間さんまでの道中は、練習していたほら貝の腕の見せ所である。辻々で吹き鳴らし、祭りの列の通ることを知らせる。浅間さんの行列がやってきたことを知った村の人たちは、各々で心付けを持ってくる。ただ心付けは、浅間さんの運営資金造りに近年から始まったことのようである。 昔は心付けという習慣はなく、村人たちは、そのまま祭りの列に加わっていたのかもしれない。
浅間さんの行列は、村のメイン道を通って進む。休憩は児童公園、農協、少林寺である。今回は休日だったので農協は閉まっていたが、過去の写真を見てみると、農協の店内でお神酒が振舞われるなど地元と一体の祭りだったことが分かる。また少林寺は立神浦に注ぐ川の源流に当たる。そのまま祭りの列は、川沿いを歩き、立神の海岸にある立石神社を目指す。浅間さんの大日如来のある大日の丘の前には、目立つように「大日如来」ののぼりも立ててあるが、前を通り過ぎ、土地の氏神であり高台にある宇気比神社にも、往路では寄らない。
写真7 海から顔を出す大石が祭祀の対象
立石神社は、英虞湾の最も奥にある立神浦の入り江に面している。神社と思われている鳥居や、物置、燈篭、賽銭箱があるのは拝所であって、その神社が奉っている物は、海面から突き出た、ふたつの大石である。海面からも鳥居が立って、そのことを強調している。ただ、その岩を村では、「立石」、「夫婦岩」と呼んでいるが、そもそも立石・夫婦岩は、伊勢の二見浦において遠望する富士という御神体の鳥居なのに、立神のものは富士の方角には向かないし、元々夫婦岩という名前を使うのは、伊勢の二見浦でも明治以降で、どちらかというと立神のその岩は、倭姫伝承の方を意識しているようである。
この場所の伝承をまとめると、こうである。
①二つの岩を、立石、夫婦岩と呼ぶ
②神社の名前は立石神社
③立石神社の祭神は祓戸の神である
④倭姫が二度振り返った(二見)という伝承がある(中世神話、神道復古)
⑤鳥居の向こうにある二つの岩の下から、過去には湧水があったという伝承
⑥夫婦岩に締めてあった注連縄には、皮膚病治療のご利益がある(洗浄効果)
⑦昔、夫婦岩の巨石は、涸れない湧水伝承のある場所から持ってきた(湧水強調)
これらの中から中世神話的な信仰や、明治の神道復古を避けて、神社を俯瞰した様子からは、おおよそこの場所で浅間さんは、海、水を祭祀していることが伺える。岩の下から湧き水があったという言い伝えなどは、後述のように海底湧水が局所的な湧き出しをしていたと考えると無理はない。
写真8 神社の拝所から大石に対面する
到着すると、過去には饗食があったのだろうか、全員で供え物の洗米を口にしている。立石神社横の禊の場所が石の階段になって海に降りている。干潮なので水は引いているが、皆で順番に降りて、海の底に残された海藻の藻(も)を手に取っている。以前は藻を、少し振って、祓いの動作をしていたという。もう一度バケツにくんだ水で手を洗うのは、実際の手洗いである。
ここで前立は、帽子と羽織だけだが神主の姿に衣替えをする。衣装は、五、六年程前に、宇気比神社の禰宜さんから寄付されたものである。伊勢信仰である。賽銭箱に、鏡餅と半紙に包んだ賽銭を供える。鏡餅は引いた後に、町内会長さんに持ち帰ってもらうことになっている。拝所に御座を敷いて参加者は、正座で座り二礼二拍手。皆は拝礼したままで、神主の格好をした前立が、祝詞を読み上げる。
写真9 弊の立て替えは、なかなか大変な作業である
さてここから、祭りも大詰めである。男衆は白装束を脱ぎ、白いフンドシ姿になる。軍手に長靴は時代の流れである。しばらくは潮も満ちてこないので、竹弊の立て替えを行う。古い竹弊は前日に抜いてあるので、新しいものを立てるだけだが、一年間、海中で風雨に耐えるようにしなければならない。相当深く地面に突き刺しておく必要がある。大弊を立てる場所は、その場所に古くから大きめの石が組んであり、それを一度、退けなけらばならない。準備してあるバールを石の隙間に入れて、新しい竹を差し込む隙間を作る。時間もかかる。今年は十三本あるので、余計に大変である。その過ぎていく時間自体が、神事のようである。それは、柱立ての儀式にも見える。
昔は、潮の引いたこの場面で、泥を投げつける遊びも加わっていたというから、南島町などの浅間祭りで幣上げを競ったように、竹弊を立てる速さを、十二組で競っていたのかもしれない。村人は立石神社の周囲を取り囲んで歓声を上げ、その競争を一種のイベントとして楽しんでいたとも考えられる。なにより立石神社が、入り江に突き出て、周囲から見通せるようになっていることが、そこが浅間神事の舞台だったことの証明のように見える。
写真10 南無浅間大菩薩
幣を立てる作業が終わると、最後に皆で並び、ひとりは手桶に柄杓で、皆に水をかける構えをしている、他の者は、米と塩、紙垂(しで)、わらなどの供え物を入れた桝を持って待ち構える。
な~む、せんげん、、、だいぼさつ~! (南無、浅間大菩薩)
唱え事と一緒に、桝の中身と清めの水は、何度も何度も、背後の空に投げ上げられた。五穀豊穣を祈願しているという。
写真11 大日の丘で大日如来と役行者を奉る
立石神社での神事の後、ひっそりと大日の丘への参拝は行われた。今日は特別の日である、ここにも竹としめ縄で結界が張られている。右側に大日如来像、左側に役行者である。燈篭には、明和三年(1766)十一月七日と刻まれる。大日さんに正対すると、拝む者は北東を向く、おおまかに富士山の方角である。石積みには、瓦も交じっていることから、昔は立派な社があったのか。また、側面に石積を伸ばしていることから、塚の円形を保持しようとする意図がみられる。古墳跡を浅間塚にしたと考えられる。ロウソクに火を灯し、洗米と鏡餅を供えた。皆で御座に正座して、前立に続いて祝詞が読まれる。宿元に帰る道中には、宇気比神社と薬師堂にも寄る。宇気比神社は、村の鎮守社である。鏡餅を供え、各人が、太鼓を、七、五、三で叩いた。
今回大変お世話になった番条氏によると、立神にも以前には行者講があり何年も前に解散したが、少しの賽銭が残ったので、信仰の由来を同じくする浅間さんの塚に、高台までの階段を作る計画をしているという。是非浅間さんを守り続けてほしい。祭りに参加された他の方々にも大変親切にしていただき、あわせて感謝申し上げたい。
引用参考文献
・山本ひろ子「中世神話」岩波新書、1998年
・小山真人、小川聡美(静岡大学)、西山昭仁(大谷大学)
「西方遠隔地(三重県伊勢、長野県下伊奈)で書かれた1707年富士山宝永噴火の目撃記録」
歴史地震第22号、2007年
・立神神社の掲示にある「立石神社と夫婦岩の伝説」より
・富士山測候所御殿場基地事務所「富士山の雲と天候の関係」
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