38 山宮神事 伊勢神宮と山宮浅間神社

#38

写真1:山宮浅間神社の拝所から見た富士


 伊勢神宮の山宮神事を取り上げた柳田国男の「山宮考」では、富士宮の富士山本宮浅間大社と、その元宮だった山宮浅間神社の山宮神事についても触れられている。明治の先人や現代になって谷川健一氏、山本ひろ子氏なども取り上げている山宮神事だが、おおよそ伊勢神宮に限定した論考が多い。また柳田については、他の地方の山宮神事なども考察しているが、ここでは伊勢神宮の心の御柱の神事とも合わせて、浅間信仰の源泉である火山地震の地鎮祭祀を前提とした視点で見てみたい。

 写真は山宮浅間神社からのものだが、非常に美しく富士を正面から見ることができる。そこには社殿はなく、富士を拝す儀式を執り行う為に、簡単に溶岩石が積まれた空間が遺跡として残されているだけである。確かに富士の眺めは秀逸だが、富士を素晴らしく見る場所は他にいくらでもあり、どうしてこの場所なのかと事情を紐解いてみると、近年では富士の地質調査が進んでおり、この場所は5世紀後半、およそ460年頃の古墳時代に富士山南西の中腹から噴出した青沢溶岩流の先端ということである。つまりここで、富士の噴火を収め、迫ってくる溶岩流のこれ以上進むのを食い止める地鎮祈祷を行っていたことがよく分かる。1500年程前、当時のこの地の豪族、もしくは大和から来た国司にとって、ここはまさに厄災除難、防災の最前線だったのである。


資料1:湧玉池とその附近の地質断面図(静岡大学名誉教授土隆一氏)


 「富士本宮浅間社記」によると、大同元年(806)に坂上田村麻呂が平城天皇の勅により、山宮から富士大神を現在の富士山本宮浅間大社の位置に移したとある。調べてみると、その現在の社地もまた、約一万年前の噴出である新富士火山大宮溶岩の先端であるらしい。

 それを証明するように、浅間大社境内の湧玉池からは、富士山でいったん溶岩にしみ込んだ地下水が豊かに湧き出てきているのが見れる。本宮浅間大社の場所もまた、富士火山の鎮護を意識した地だったことが分かる。


写真2:富士山本宮浅間大社の正面楼門


■御鉾と心御柱

 浅間神社で行われる山宮神事と、神宮の神事とを見てみると、中世におけるその祭祀・儀式の関係は明瞭である。中でもその主役である浅間神社の御鉾は、神宮における行事の主役である心御柱を写していて興味深い。

 浅間大社では四月と十一月の初申の日に、山宮御神幸と呼ばれる山宮神事が行われた。柳田によると、その神事は明治六年に中止されるまで、一千年以上続いたものだった。御鉾とは、その浅間大社の山宮御神幸において、里宮である現在の富士宮市街にある本宮浅間大社から、富士山山麓にある山宮浅間神社に運ばれるご神体のことである。山宮御神幸は、平成18年に復活され、その時に御鉾も復元されている。長さは2メートルほどで、太さは十数センチ、先端は剣のようになっており、末端は地面に据え置けるように平らにしてある。

 一方、神宮の心御柱とは、伊勢神宮の正殿床下に据えられ、建物から独立した、長さ五尺(1.5メートル)、直径四寸(12センチ)の柱である。この柱については、古来神宮の最極秘として扱われ、いまだにその意味は明らかにされておらず、六十年に一度の遷宮に伴うその儀式は、神宮では最も重要な神事である。心御柱は三種の神器などと同じように人の目に触れることはなく、その秘密めいた扱いゆえに、様々な憶測をよび、神仏習合思想の中で宗教者たちの手で想像力豊かに脚色され、独鈷、逆鉾と変化していった。行基図を由来とする要石の図(第10回の「大日本国地震図」参照)で、地中の竜の頭を貫いている剣も、その逆鉾である。


写真3:下方の浅間五社を統括した東泉院別当で使用された密教法具「独鈷」(富士山かぐや姫ミュージアム・旧富士市立博物館収蔵)


 外宮禰宜の度会常昌(1339)が天皇の命で撰進した「大神宮両宮之御事」には、

「日本ハ独鈷。唐古ハ三鈷。天竺ハ五鈷トス。日本ハ因也。天竺ハ果也。然間心ノ御柱ヲ独鈷トス」

 ここでは、日本列島そのものが密教の法具である独鈷とされ、しかるならば、心御柱も独鈷であるとしている。神道の最高機関である神宮の禰宜が、密教法具について述べているところが、神仏習合時代の特徴そのものである。

 さらに、仏教側では、東大寺ゆかりの良遍(1194)の「神代巻私見聞」には、

「心ノ柱ハ辺々荘ル也。則、密教ノ三戒・歯木、是也。独鈷形ハ即、天ノ逆鉾也」

 とあり、心御柱は、独鈷の形をしていて、それは天の逆鉾でもあるといっている。

 興味深いところでは、国宝の古事記などを収蔵する名古屋市大須の真福院では、「麗気記」と呼ばれる書物に、心御柱は要石のある鹿島香取神宮の金剛杵で、「杖立」とまで言及が及ぶ。

 江戸時代の浅間大社の境内に鎮座していた、大日堂、明神、八幡、帝釈堂、飯酒王子、弁財天、天神、天王社、荒神社、摩利支天社、神宮社、弁天社などの勧請社や、竹内靱負氏が述べた富士の祭神、本地などの遍歴などは、中世から近世に浅間神社で繰り広げられた神仏習合、神道変容の痕跡である。

 国家宗廟、神道界の中心である伊勢神宮においても、中世以降、天照大御神は神仏習合の中で様々な神へと変化した。特に真言、天台密教との関係は深く、多くの仏教者が神宮に参拝し交流を深めた。神宮独特の仏教忌避が逆にその様相を強めたといってもいい。そこで花開いた中世神話は、修験者や全国に荘園を持った神宮のネットワークにより外へと拡散していった。浅間神社の御鉾も、当初は単純な柱立てだったが、中世神話の影響を受けて御鉾へと変化したのだと考えられる。

 心御柱はもともとは、上記したように建物から独立しており、神宮が中央構造線上に創建された頃から、特に地鎮めの役割を強く与えられたものの、儀式用具としては土地鎮めを意味する単純な柱立てだったと思われる。現在我々が建築を行う時に見る、地鎮祭の儀式にある、砂山に御幣を柱立てすることと同じである。

 話がずれるが、柳田が指摘したことの中で、この浅間神社の四月、十一月の山宮御神幸以外に、いつからか九月十五日の大祭が浅間神社の祭りに加わって、久能寺と新宮から人が来てこの祭りの関係者となっているとある。これこそ伊勢神宮の陰陽五行に基づく北極星信仰の祭りであり、浅間神社の神事が神宮の祭式に大きく頼っていることを表している。神宮では古来から、年に三度の三節祭の内、北斗七星が描く柄杓の位置を測る九月中頃の神事を、最も重んじていた。久能寺と新宮(静岡浅間神社)は駿河国の国司のいる駿府にあり、そこからヤマトの行政を通じて神宮の影響が伝わっていたと思われる。


写真4:富士山本宮浅間大社の正面楼門の前にある鉾立石


■御鉾出御

 本宮浅間大社からの御鉾の出発(出御)に、小さなことだが、山宮御神幸と心御柱の行事との具体的な共通点が現れる。

「正鑑取持ち奉り、大床の簾外にて木之行事に授く、木之行事守り奉り、左肩にして山宮着御まで替ることがない。」(浅間神社の歴史)

〈鑑取〉とは、宮司や禰宜などにあたる神職の名前である。鑑取は御簾を出て、この儀式の世襲職である〈木之行事〉と呼ばれた者に御鉾を渡し、木之行事は山宮に着くまで、左肩にのせた御鉾を右肩に替えることはなかったという。ここで左肩に乗せる動作は、わざわざ文書化される決まり事となっている。

 一方、神宮の心御柱は、浅間大社の〈木之行事〉に通じる「木本祭」で、杣山から刈り出され、神宮の宮中に運ばれるのだか、

「山向・菅裁・御杣二入り、之ヲ採り奉り、清薦ヲ以テ之ヲ巻キ奉ル。忌部氏ノ役人左ノ肩二背荷ヒ、外幣殿ノ乾二奉安ス。」(勅使部類)
「心ノ御柱ハ、晩陰ニ及ビ度会郡司ノ役夫ヲ以テ之ヲ持シ奉り、左ノ肩ニ之ヲ荷ヒ、右ノ肩二渡サズ、宮中ニ渡シ奉ル。」(外宮遷宮要須記)

 神宮の心の御柱においても儀式は夜更けに及び、度会の郡司の下人が御柱を持ち、左肩に乗せ、右肩に替えることなく神宮の宮中に運んだのである。ここでもわざわざ文書化され、御柱を左肩に乗せることは、神宮の掟となっていた。

 神宮でも、浅間神社でも、左肩に乗せたのは、元々は右手に錫杖を持つためだろう。両社とも神仏習合当時の神事には仏教者が参加していた。当時の仏僧や修験者は、錫杖で権威を表した。重要な儀式においての正装である。また、錫杖は、重い御鉾を持つことでぶれる体を支えたのだとも思われる。中国の故事にある「左袒」(さたん)や、大黒天の袋が左肩など、左肩の由来については、多数の推測ができるが、何にしろ、木本祭という儀式名は、木之行事という役名に変わったが、神体を左肩に乗せるという習慣は決め事に残されたのである。


写真5:山宮浅間神社の鉾立石。後方は、溶岩流の先端部を上る拝所への階段。


■鉾立石

 本宮浅間大社の御鉾の扱われ方にしても、心の御柱と同様に地鎮祈祷は柱立てが強く意識された。山宮御神幸の行列は、出立するとまず最初に、あきらかに鹿島神宮の要石を意識した、浅間大社正面楼門前に据えられた休石(鉾立石)と呼ばれる、巨大な自然石の上に一旦奉安された。このあと御鉾は山宮に着くと、そこでもまた、社殿のない祭場に上がる階段の前に据えられた鉾立石に一旦置かれた。浅間神社では、ここにおいて、御鉾と要石、二つの要素を使って火山鎮め、地鎮の柱立てが行われた。

 一方神宮では、心御柱の根元にも数百の天平瓮という土器が重ね合わされ、要石の様相を示していたが、荒木田氏の山宮神事においても、浅間神社と同じように自然石が置かれていた。

「社無ク、只地上ニ石ヲ据ヘ置テ、其ノ上ニ祭ルナリ」(皇大神宮年中行事)

 ここでは、石に何を祭ったかは書かれていないが、これもまた、要石が意識されていたと思われる。そこでは儀式に伴って饗膳(食宴会)が行われていた。また記録の前後をみても荒木田氏の山宮神事が、場所の特定を容易にしないのは、つまり祭場を一定せずに行っていると思われ、神事毎に場所を変え、神宮周辺を広域に御祓いしていた様子が伺え、それは地鎮祭祀に繋がると思える。


資料2:山宮の御殿と南の棚(山本ひろ子「心の御柱と中世的世界」)より


■地鎮の柱立て

 江戸期に書かれた、神宮の年中行事を記した「豊受皇大神宮年中行事今式」によると、度会氏の山宮神事では、祭場では、「竈」と呼ばれる焚き火が燃され、「御殿」が作られたとある。それは打ち付けられた杙(くい)に椎萱を藤蔓で結びつけた簡単なものだったらしいが、この「杙」も地鎮の柱立てだったと考えられる。

 1980年、伊勢二見浦にある荘村では、この御殿の跡と思われる現場が発掘されている。二見浦は、伊勢から富士を望む有名な場所である。荘は字のごとく神宮の荘園のあった場所で、「その遺跡の一部は鎌倉中期から室町に、かなり短期的に使用、廃棄し、再び作られ、(中略)特異的に坑内周に、二十五本以上の木杭を打ち、また、杭間は自然枝や竹で連結してしがらみ状に囲った様相を呈していた」とされる(荘遺跡発掘調査報告36p、1980年三重県教育委員会)。度会氏、神宮禰宜らの山宮神事は、地鎮のために、神宮周辺を巡回していたのではないかと推測される。

 浅間大社でも、度会氏山宮神事の杭に近い、柱立てと思われる行事が山宮御神幸を通して行われた。ここでは参加者の階層が二重構造なのと、饗宴の催しにも気づく。

(一)本宮神法 荒柴と呼ぶ。当日社中より山宮まで、神幸の順路五十町の間を、正鑑取・祝子両人にて、一町毎に荒柴即ち犬榧(イヌガヤ・シダのような低木)を刺すのである。終わって右の三人にて大宮司家へ柴を下す。大宮司よりは肴を出して之を謝す。柴振舞という。また、この日鑑取より、飯櫃、ゆかき一汁二菜を出し、一和尚を請取りて、正鑑取・山宮太夫・木之行事・所司太夫・一和尚・四和尚・祝子列席饗應(宴会)あり。
(二)山宮小神法 山宮と本宮まで、荒柴と反対に五十町の間を、一町毎に柴即ち躑躅(つつじ)を刺すのである。山宮太夫・木之行事・祝子が勤仕する。
(三)本宮柴 惣社家出して、本宮より市神まで柴即ち榊を刺す。柴榊と呼んでいる。終わって山宮太夫・宮仕を除く外惣社家中にて、大宮司家へ神法下し即ち柴下しのことあり。大宮司よりは、また酒肴を出して之を謝す。別当へも柴を下す。宮仕六人・祝子がそれに従ふ。別当からは茶を出して謝意を表する。この外公文・案主・正鑑取へも、祝子が神法下しを奉仕する。柴を下すとは、榊の枝を社家・別当等の門に挿むことをいふ。
 この日正鑑所より飯二・櫃二・ゆとり・一汁二菜を出し、一和尚請取りて之を饗應すること前日の如くである。これ亦柴振舞といふ。同時に別当家にても、一廿二菜にて飯・引物・酒等を六人の宮仕と祝子に出し、閼迦井坊も相伴し、饗應のことあり。これを別当柴振舞といふ。

 浅間神社では、山宮神幸祭の事前準備として、イヌガヤ、つつじ、榊を道々に刺していた。柱立てにはいささか心もとないが、本宮から山宮までの五十町の間に、木々の枝を地面に刺し、それを地鎮の柱立てとしていたのである。またその行事を終えると、必ず食宴を示す儀式がも執り行われ、その行事は、食材を出す者と受け取る者、出席するものとしない者の二重構造を暗示する形式がとられた。

 そして浅間神社の山宮神幸祭の当日に現れる小道具こそ、神宮の山宮祭りに使う御幣の特徴に非常に類似する。浅間神社では、当日、祝子、一和尚より出す所の弊紙を仕立て、社中より木之本五大堂までの間に総計三十六本を挿すのだが、そこで使われたのが、短冊に切らない弊紙である。(図参照)

 度会氏の山宮神事でも、同じように、禰宜らが前日に同族の長者の館で、自ら竹を削って作った幣串に、刀を入れない幣紙を挿んだ御幣を六本用意しておいた。そしてその幣串は、山宮の御幣が物忌父らによって御殿と棚の前に刺し立てられたのである。神宮も浅間大社も、元々の幣(ぬさ)から紙に変化した御幣を、通常はさらにひだ状に切り分けるのだが、この場面では、ひだ状に切ることのない、一枚なりの幣紙を使って地鎮を行った。


■神事の二重構造

 神宮の心御柱の儀式は、都からの朝廷役人層と、地元神領民との二重構造で行われ、神領民の神事は、正殿の床下で真夜中に行われた。伊勢神宮の正殿が高床になっているのは、高床式の穀倉庫を原型としているとか、中国や東名アジアに源流があるなどとされているが、それは大和勢力の東征が行われた、神宮創建当時の被征服民である地元領民に果たされた、服属儀礼を行った名残である。

 一方浅間大社でも、上記で触れたほかに二重構造が継承されており、正月六日に行われる年初の山宮神事では、そもそも都からの役人が務めたと思われる正・権・後権の鑑取は不参が例で、本祭である四月の山宮御神幸では、本宮を出た行列は各所を巡って木の本五大堂という場所に着くのだが、

「是に於いて権鑑取・後権鑑取・山王禰宜・大鹿窪禰宜本宮に帰る」

ことになり、最終的に御鉾を山宮に運び、ご神体である御鉾に神を宿らせ、その鉾を山宮から降ろしてくるのは、地元領民が世襲したと思われる山宮太夫・木之行事らが深夜に行ったのである。ここでも、地元民が往古から行っていた儀式は、深夜に行われることで服属儀礼として残された。

 また上述した、心の御柱や御鉾を左肩に乗せたことについても、中国《史記》に引く、「左袒」(さたん)に由来するものと考えれば、服属儀礼であると解釈することに無理はない。

中国では左肩を脱ぐことを袒(たん)または左袒といい,吉事にも凶事にも行ったが,前漢の将軍周勃が呂氏一族の乱を鎮めようとしたとき,軍中に令して呂氏のためにする者は右袒し,劉氏のためにする者は左袒せよと言ったところ,全軍皆左袒したことから,それは味方することを意味するようになった。(世界大百科事典)

 地元民たちが、心御柱と御柱を左肩に乗せ、右肩に替えることがなかったのは、中国の故事にちなみ、大和政権に味方することに賛意を示していたのである。


写真6:山宮浅間神社の拝所遺跡


■墓所での祭事

 伊勢神宮での山宮神事は、その行事が神宮の儀式帳にも記されているものなのに、神宮から独立し、彼ら固有のものかのように、外宮・内宮それぞれで禰宜を務めた度会氏と荒木田氏一族によって行われた。過去に取り上げられた山宮神事の論点では、その神宮から独立したように一族が集まったという点と、一部が各々の一族の墓所で行われたという点が、神宮の山宮神事を、祖霊を弔う行事であるとか、農事の神が山と里を行き来する神事であるなど、先人を迷わせたところかもしれない。

 災害厄除をする伊勢志摩の浅間さんの多くが古墳跡を利用し、古くから、地震の差異を天皇が先祖の墓陵に奉幣していることは以前にも触れた通りである。近世には神宮御師が、宝永噴火での地震を受けて先祖の墓を参っている例もある。

 江戸時代の神宮御師家である浦田家の蔵人という人物の「蔵人日記」には、富士の宝永の大噴火と地震を伝えた日記に、

宝永四年十月四日 八つ頃大地震、前代未聞、絶言語候

(中略)

      八日 津藤堂仁右衛門殿門つぶれ、十一とまへ米蔵不残つぶれ申候由、
         御城之内大分御破損之由、芳々国々共ニ地震大分ゆり申候由也

 前代未聞と表現し、その後も地震の様子を伝えるが、津藤堂藩など市中の被害と比較して、自分の家屋は無事だったらしく、騒動も落ち着かない被災五日後の九日、

九日 御礼御参宮仕候 墓にも仕候

神宮を参拝したあと、先祖の墓にも墓参している。

 つまり、古い時代において、先祖の墓所を参るということは、ある意味天変地異の収束を祈願するものだったのであり、中央構造線上に鎮座し、富士を仰ぐ伊勢神宮の山宮神事であるならば、なおさら、祖先の墓所を奉ることで地鎮の神事を行うのは自然なことだったと思われる。

 少し脱線するが、何より、富士山の由来物語である竹取物語は、見事に物語的比喩でそのことを表してる。つまり、三か月ばかりで良き程に成長したかぐや姫を、その後、月から使者が迎えに来たのは、急成長の反動から姫が死に至ったことを示している。そして、姫が天皇に残した不死の薬は弔いの香であり、天皇は富士山をかぐや姫の墓に見立てて、その頂上で線香である薬の壺を燃すことを指示したのである。ここにおいても、富士の祭神であるかぐや姫の墓所を参る行為と、富士火山の地鎮祈祷とが繋がっていることが分かる。


写真7:度会氏の山宮神事があった伊勢前山周辺にある養命神社


■柳田国男の暗示 

 柳田国男は、山宮考で神宮の山宮祭りについてこう感想している。

 どうしても考えずにいられぬのは、こういう谷の奥のただかりそめの祭りの庭を、何ゆえ古くから山宮と言い習わしているかということで、普通に我々の言っている宮と社との区別では、この点はとうてい説明することができない。(中略)凡俗の眼には見えない祖霊の隠れ宮が、かねてこの山間の霊地にはあるものと信じ、時としてはこれを幻にも見たことは、たとえば富士の北麓の村人が、上代の噴火の後先に、五彩目の綾なる石造の宮殿が山頂に建つと思ったり、または伊豆の島々の山焼けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれたと奏上したりしたように、いろいろの不可能事を可能として、言い伝えていたのではあるまいか。

 ここでは柳田は、意図的だろうか、神宮の山宮祭りの場所が定まらず、固定した社のないことに理解ができないと論を振るのだが、そこに地元神宮禰宜たちか見ていた幻として挙げた例が、ちょっと驚きである。

 「上代の噴火の後先に、五彩目の綾なる石造の宮殿が山頂に建つ」や「伊豆の島々の山焼けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれた」とは、以前本稿でも取り上げた、続日本後紀、承和七年の、伊豆国からの火山噴火の報告であり、幻ではなく、今となっては、火山災害を神々の仕業に例えて記述したものとはっきりしている事実を持ち出しているのである。

 ここでの柳田の思考は恐らく、神宮の起源を示す山宮神事は、明らかに富士の火山が契機となっているものと断定している。柳田は当時の世情の中で、伊勢神宮を語ることに随分と遠慮していたのではないだろうか。そこで国家の宗廟が、もとは地鎮めの祭祀場であることを断言することをさけ、記述ではその暗示だけにとどめていたと思えてくる。



引用参考文献

・柳田国男「神樹篇・祭日考・山宮考(柳田国男全集第14巻)」筑摩書房、1990年

・山本ひろ子「心の御柱と中世的世界」春秋、1988~1992年

・平成14年度富士山ハザードマップ検討委員会第5回基図部会資料、2001年

・松本疎弘「度会氏の山宮祭場」(国学院雑誌第二十五巻大正7年1918)第一書房、1977

・大西源一「荒木田氏の氏神と山宮祭場」

 (国学院雑誌第二十四巻大正8年1919)第一書房、1977

・谷川健一「日本人の魂のゆくえ: 古代日本と琉球の死生観」

 冨山房インターナショナル 、2012年

・浅間神社遍「富士の研究 2  浅間神社の歴史」古今書院、1929年

・岡田精司「古代王権の祭祀と神話」塙書房、1970年

・静岡大学防災総合センター「活火山富士山のわかる本」、2005年

・富士市立博物館「富士山のふもとに灰を雨らす・第53回企画展」、2014年

・井上章一「伊勢神宮・魅惑の日本建築」講談社、2009年

・伊藤聡「中世天照大御神信仰の研究」法藏館 、2011年

・伊藤聡「神道とは何か 神と仏の日本史」中央公論新社、2012年

・保立道久「かぐや姫と王権神話」洋泉社、2010年

・竹内靱負「富士の祭神論」岩田書院、2006年

・松前健「日本の神々」中央公論社、1974年

・三重県教育委員会「荘遺跡発掘調査報告」、1980年

・小川真人・小川里見(静岡大学)、西山昭仁(大谷大学)

 「西方遠隔地で書かれた1707年富士山宝永噴火の目撃記録」、2006年

・吉野裕子「隠された神々」講談社現代新書、1975年

・川添登「伊勢神宮・森と平和の神殿」筑摩書房、2007年

・朝日新聞社「コトバンク・世界大百科事典」

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