37 伊勢古市の浅間三社と五ヶ所浦龍仙山
外宮と内宮を結ぶ古市参宮街道にある寂照寺である。二代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁ぎ、その後数奇な運命をたどった千姫の菩提を弔うため、延宝五年(1677)、遠江国(静岡県)出身で、後に知恩院三十七世となった寂照知鑑によって建てられた。
古市の街道と言えば、明治までは外宮と内宮を繋ぐ道はこれしかなかった。古代においては、外宮から内宮へ御贄(ミニエ)を運ぶ道(途中で起きた忌事を理由に中止)でもあっただろうし、江戸時代には、お伊勢参りの参拝者で賑わった遊郭街で有名だったが、この寺ができた江戸初期は、周囲に何もなく、神宮の神域を目の前にした静かな丘陵地にこの寺は建てられた。
千姫は、神宮神域にあった尼寺慶光院に縁があったといわれているが、実際寺は、徳川家の安泰を神宮の霊験に授かろうと考えたものかもしれない。それとも創主の知鑑は、富士が間近に見えた故郷遠江を懐かしみ、神宮が富士に縁のあったことを知っていてこの地を選んだのだろうか。この寺は後に、再び知恩院からやってきた月僊上人の絵画の手腕により中興されるが、月僊の描いた「遺墨富士山ノ霊峰富士の図」は、今だ寺宝として伊勢市の文化財に指定されている。
実はこの古市参宮街道のある長峰の丘陵には、浅間の社が三つもあり、そのひとつが、この寂照寺にあった。江戸期の寂照寺の境内は広く、長峰の丘陵最頂部を大きく占めていた。その敷地内に浅香山と呼ぶ一角があり、そこには巨岩信仰というべき大石を奉る、御岩社という神社があった。明治の神仏動乱で宇治山田の箕曲中松尾神社に合祀されたが、そこにあった観音堂は寂照寺内に鳥居と共に移築され、現在も麻吉旅館の廊下が渡る下りセコを降りたところには、「浅香つゞら稲荷神社」としてその大石の一部は存在し、そして当初の御岩社と同じ境内に浅間社もコノハナサクヤヒメを祭神として鎮座していたという。
現在の寂照寺の境内の片隅には、頭と、恐らく胎蔵界定印だった印相を失った如来像が地蔵と共に並べられているが、「享保辛亥十六年」(1731)と刻まれた石像は、神社に置かれた仏教像を壊したものと想像され、それこそ失われた浅間神社に安置されていた大日如来像だったと考えられる。
桜木町の雪峰稲荷の場所は、昔から近所の方々から「浅間さん」と呼ばれ親しまれてきた土地である。稲荷自体も山田周辺に二十数社ある稲荷を商売人たちが巡る講があり信仰が篤かったが、それ以前をコノハナサクヤヒメを奉る桜木神社といった。これは、明治四年の仏教政策により桜木町が引き受けたものであり、いよいよその前が浅間神社だった。延暦年中(782~806)に勧請とあるが、本宮浅間大社に倣ったものだろう。神都名勝志(1895)に、「本町(桜木町)左側に座す産土神なり。祭神は木花開那姫命に座す。境内櫻の大樹多し」とある。
現在は、当地区の災害物資を貯蔵する物置横の石積にその跡を確認できるのみだが、道路に面した間口の側の地面には正方形で井戸の痕跡も見れる。当地の前面に住む和田氏宅には、骨董店で偶然発見された明治三十年の「桜木神社御神遷議事録」が残されているが、そこにはその当時の社殿が元は西向きで、社殿に向かって人が拝すると、富士に向き合うようになっていたことが分かる。現在も、過去には木登りをして、竹弊を上げていただろう様子が偲ばれる大樹が、敷地奥に繁る。
今一つの浅間社の場所は、なんと銭湯になっていた。それも「泉軒湯(浅間湯)」という屋号で、平成14年まで営業していた。それは、現在の古市公園のテニスコート前であり、その水源だった井戸は、今でも災害時に緊急に使われる井戸に指定されている。銭湯になる前、その井戸は不思議に枯れず、どんな日照りの年でも、こんこんと清水が湧き出ていて、水不足に悩む古市の人々に感謝され、「浅間井戸」と称して神聖視されていたという。そして一丈七尺もの大楠などが森を形成していたともいう。
伊勢の古市夜話には、「三尺四方位の社殿が鎮座していた。それが浅間社である。もちろん無社格であるが、その附近の人々の信仰は意外に深く、毎年旧五月二十七、二十八日の祭礼には狭い裏道から表通りまで、各妓楼名入りの大行燈(二尺から六尺ぐらいのもの)が吊り下げられ、百匁ローソクの灯りが夜空に映えて景気を煽ると、香具師や見世物も泊まり込みで興行して、大変な賑わい呈したという」とある。
浅間社が三つもあったのには、理由があった。三つの社は、直線に並んで、その直線はまっすぐに南伊勢町五ヶ所浦にある龍仙山を指していた。つまり富士を仰いだ二見浦と伊勢神宮両宮の三角形の中にいた浅間社三社は、志摩国五ヶ所の浅間山である龍仙山と繋がり、龍仙山が束ねていた五ヶ所湾を囲む浅間さんとも繋がっていたのである。龍仙山からは、湾を囲む浅間さんが竹弊を上げたことを目視出来た。(ブログ第10回:五ヶ所浦龍仙山を参照)
もっとも、これは中世神話のレトリックで考えれば不思議な話ではない。これまでの話で、中世以前から中央構造線の上に鎮座した神宮が強く地震災害を意識していたことは明らかだし、地図上に正確な直線を過去の人が引いたのも珍しくない。古市の浅間三社のあった場所は、両宮の間の神域のようなものだったから、皇祖神、天照大御神を奉る神宮の正殿床下にある心御柱は、「神宮御鎮座本記」や「同伝記」、「両宮形文深釈」などが語るように、八大龍王が守護神とされており、また心御柱そのものが独鈷・御鉾とも考えられて、その独鈷の霊験を使って五ヶ所浦に潜む地震龍そのものを押さえつけ、土地鎮めを行い、たびたび熊野灘を襲った津波防御を祈念したことに無理はなかったのである。
心ノ柱ハ是独古三昧耶形、金剛宝杵、所レ謂独一法身ノ智剣也。故古変テ化栗柄。々々現明王。々々化八大龍王。而心ノ柱守護、十二時将常住退ズ。是不動ノ本尊也。
心の御柱でもある独股が倶利迦羅龍王(栗柄)となり、不動明王を現じ、その明王が八大龍王と化したという。〈中略〉かくして化現した八大龍王は、昼夜の十二時を護る十二神将と共に「不動ノ本尊」となって「常住不退」のまま心の御柱を守護することになる(山本ひろ子)。
ここでは信仰の論理的展開を説明しているが、民俗学的に付け加えれば、あくまで中世神話の中での話だが、五ヶ所湾でも悪神たる地震龍を、念ずることによって、善神に転化する作業も行われていたと言える。善神に転化された龍は、逆に八大龍王に化現して、神宮に戻り、心の御柱の守護神となったのである。
一方で浅間三社と龍仙山の直線を、冒頭で触れたように、寂照寺の創建が徳川の安泰を祈願しているという文脈で考えると、これもまたしかりで、寂照寺が千姫の菩提という徳川家にとって、とりわけ特別な寺であり、その創建が江戸城、そして江戸という都市の建設機運が未だ冷めやらぬ時期と考えれば、具体的にいえば、日光東照宮を江戸城の真北に位置させるなど(平面地図では磁北偏差あり)、江戸に家康の側近だった大僧正天海がこだわり抜いた陰陽五行・四神相応の方針が使われた背景を考えれば、久能山と日光を富士で結んだように、神宮の裏鬼門である龍仙山を、富士の祭神である浅間神の本地である大日如来で護ったことは当然ともいえる。
また静岡出身の寂照寺の創主知鑑が、若かりし頃に出家した宝台院は、富士を仰ぐ駿府城すぐ側の二代将軍秀忠の母、西郷局の菩提寺である上に、天海は天台宗だったが、浄土宗大本山で徳川家菩提寺の増上寺を、簡単に江戸城の裏鬼門に移動させており、神宮の立地を富士との関連性で判断すれば、龍仙山の上に一尺程度の大日の石仏を置く作業はとても簡単なことだったといえる。それとも逆に、寂照寺の南北に、小さな浅間社を置くなども造作ないことだったと考えられる。天海は、江戸ではさらに、平将門の首塚から発想して、足や手、胴など、将門の体の部分部分を分けて江戸の要所に奉り、「地鎮」を行っていたともいわれている。
災害史的にいえば、江戸時代は、M8と南海トラフ級だった1605年の慶長地震で始まったといえる。この後しばらく、日本列島では連続して地震が起こっている。特に慶長地震では、太平洋側を大きな津波が襲い、死者は一万~二万人とも言われている。
近日関東大地震有之、死人等多云々、又伊勢国、紫国等有大地震云々(孝亮宿禰日次記)
此時伊勢国浦々潮数町干タリケルコ事一時計也、漁人モ魚鮑巳下心儘ニ取所ニ、潮俄ニ来テ、大石モ浦々ヘ打上ゲル間、生テ帰者ナシ(当代記)
地震津波の後、伊勢国の港では、数町の広さで潮が引き、いっときが経った。漁師たちは、これ幸いと、アワビを採りに出たが、大きな石が打ち上げられるほどの津波が再びやってきて、生きて帰ってくる者は居なかったとある。
浅間さんの古式を残していると思われる古和浦や贄浦で、稚児が祭りに参加し、いの一番に浅間山に走って上るのが以前からの伝承であったり、弊上げ自体も競争して、言い換えるなら、緊急に対応する早さで山に上がっていることから、浅間祭りは、一種の津波災害の避難訓練であるということを以前述べた。
仮にそうだったとするなら、五ヶ所の湾を囲むように各々の浅間山に高々と上がった竹弊は、避難訓練の完了を知らせていたものとも考えられ、この地方には古くから狼煙や夜の燈火の文化が残っており、事実、熊野灘に面した浦々は外国船監視のため、狼煙で玉城にある紀州藩の田丸城と江戸末期まで繋がっていたことから考えると、五ヶ所湾のすべての浅間山を見渡せた龍仙山から、切原峠の八大龍王を経て、世義寺や金剛證寺、もしくは寂照寺に狼煙が伝わり、浅間祭りの完了が知らされていたと考えても不思議ではない。
わざわさ地形図に「八大龍王」と表された切原の峠の横のピークは、水源のピークということよりも、龍王の意思を伝える狼煙の中継地だったのではないだろうか。次回以降述べることだが、神宮祢宜一族の山宮神事においては、夜、世義寺の灯火によって儀式が始められた。
引用参考文献
・修道まちづくり会「古市参宮街道マップ・ガイドマップ手帳」2015年
・同「伊勢古道イロハ歌留多」
・朝日新聞社「コトバンク・日本人名大辞典」
・岡田精司「古代王権の祭祀と神話」塙書房、1970年
・伊勢市「伊勢市史 第7巻文化財編」、2007年
・桑田忠親「桃山時代の女性」吉川弘文館、1972年
・野村可道「伊勢古市考」「伊勢の古市夜話」三重県郷土資料蔵書、1976年
・東吉貞、河崎維吉「神都名勝志」吉川弘文堂、1895年
・伊勢市「伊勢市史 第8巻民俗編」、2007年
・一二五社研究会「伊勢市の氏神様と小祠めぐり」
(伊勢郷土史草 第41号)伊勢郷土史草編集委員会、2007年
・宇治山田市「宇治山田市史」、昭和4年(1929年)
・山本ひろ子「心の御柱と中世的世界」春秋、1988~1992年
・國學院大學日本文化研究所「神道思想名著集成 上巻小野祖教 編」、1973年
・伊藤聡「神道とは何か 神と仏の日本史」中央公論新社、2012年
・伊藤聡「中世天照大御神信仰の研究」法藏館 、2011年
・高藤晴俊「日光東照宮の謎」講談社学術文庫、1996年
・宮本健次「江戸の都市計画」講談社選書メチエ、1996年
・石橋克彦「南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会 」岩波出版、2014年
・宇佐美龍夫 「最新版 日本被害地震総覧」 東京大学出版会、2003年
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