35 中央構造線、神宮、浅間さん
#35
伊勢神宮が中央構造線上の、いわゆる断層上にある、パワースポットであることは、一部の人の間では有名な話であり、本来は断層の上であることから、地震厄に対する霊験を求めるところなのだが、その霊験が拡大転化され、すべての厄災・願い事に効用があると解釈されている点も見逃せないところである。だが、ここではパワースポットの話は置いておいて、断層の詳細を見てみると、その線は、伊勢神宮両宮の間でも、両宮の両方でもなく、どちらかというと外宮の下を通っていることが分かる。さらに浅間さんには、里の小高いところ以外に、地域の拠点的な特別高所に位置する浅間山があるのだが、度会から多気、飯高ではそれらがちょうど、その構造線に沿って分布していることも分かる。つまり、浅間さんと伊勢神宮は、富士信仰という災害信仰で連携し、伊勢の地を地鎮するように並列しているのである。
中央構造線は、約8,000万年前にできた断層で。西は九州から四国、近畿、中部から信州へは北上し、信州から北関東を緩やかに南下していく西南日本のほぼ中央部を約千キロ以上に渡って縦断する大地質構造線である。日本列島の陸上部では、最も長い活断層を形成している。北側を「領家変成帯」、南側を「三波川変成帯」と呼ぶ。地質境界をなす断層は、一部では一本ではなく、分岐したり、これと並走したりしている。断層ズレの速度は、四国中部から東部では千年で7メートルの移動速度を示しているが、紀伊半島などではその数分の一以下である。ちなみに大陸構成であるユーラシアプレートとフィリピン海プレートとの境は南海トラフであり、太平洋海中にあり、これと混同しやすい。ただ、中央構造線はこれら大陸プレートの移動に伴った、地質移動の結果であるとも考えられている。最近の研究では、この断層の移動による地震の研究もされているが、伊勢地区を直撃したものは見つかっていない。
飯南町粥見にある、以前紹介した立梅(たちば)用水の取水場である。水面が非常に低かった櫛田川下流域の干ばつ対策に、江戸時代に30キロに及ぶ用水工事を延べ27万人の人力で行った。写真はその用水施設の取水場である。付近の村々の小高い場所には、浅間さんが点在している。
ここではまた、川の流れで岩盤があらわになり、岩に直線状の割れ目が観察でき、中央構造線の状況を目で確かめられる。さらにまた、すぐ横を通る国道166号線を使って20キロ程この櫛田川をさかのぼれば、波瀬の集落から派生する月出川源流で、伊勢湾台風で起こった崖崩れにより中央構造線の断面が間近で確認できる。その場所は「月出中央構造線露頭」と呼ばれ、平成十四年に国の天然記念物にも指定されている。露頭の大きさは、高さ80メートル、幅50メートルの範囲で大規模なものであり、北側の領家変成帯、南側の三波川変成帯が、色の変化により、はっきりと確認できる。現在は「日本の地質100選」にも選ばれている。
朝熊山山頂の展望台に露頭している朝熊山断層の一部である。この朝熊山断層は、昭和3年に、地質学者で東大教授だった大塚弥之助氏の指摘によって明らかになっている。氏は、地質の調査と朝熊山の北斜面が急峻になっていることに注目し、断層が鳥羽市の船津から西進し朝熊山の尾根を登り頂上に至り、そこから尾根を下り当時の伊勢市北中村(現在の内宮神域北側)へ降りると、五十鈴川を横断して鼓ケ岳に達するとしている(グーグル図)。氏はさらに、朝熊山の北斜面自体が200メートルもの高低差を伴う断層壁であることにも言及し、中央構造線にも近いことから地震への注意も促している。ただ現在のところ、この断層に活動は認められず、気象庁などの監視下には入っていない。
ここでの注目はもちろん、ここ数回浅間さんとの関りを述べてきた朝熊山の頂上部に断層が露頭し、そのまま山を降りた断層が伊勢神宮の内宮神域、しかも大山祇神社のすぐ側を通っていることである。つまり、外宮では中央構造線がその下を通り、内宮ではその副産的断層である朝熊山断層がその下を通過していることになる。この内宮では朝熊山頂上で八大龍王社、麓では大山祇神社が地中の龍を押さえつけ、大地の揺れを地鎮するという概念が働いていたと思われる。また、心御柱が切り出される鼓ケ岳までその断層が続いていることも加えて注目である。
続けて大塚氏は、鳥羽市安楽島から南伊勢町に至る地形線上にも断層を認め、その断層を五ヶ所安楽島地溝線と名付けているが、この線上には、内宮別宮の伊雑宮と、朝熊山金剛證寺の末寺青峰山正福寺が鎮座している。伊雑宮は内宮正殿に準じる「別宮」と呼ばれる格式ある宮であり、正福寺も青峰山頂上部に大きく伽藍を構え、全国の漁業関係者が参拝に訪れる有名な寺である。つまり、一連の断層と、伊勢神宮とその関係の有力神社仏閣、加えて浅間さんの位置関係が一致していることは、それらが連携しながら、名付けるとしたら、「断層信仰」を持ちながら周辺地域を地鎮していることを示している。
こちらも以前紹介した、阪神淡路大震災の時に露出した野島断層と荒神塚の位置図である。数百年前に置かれた荒神塚と、地震断層が一致する状況からは、先人が断層の科学的な理解を一部行っていたような形跡がみられる。もしくは磐座信仰がその延長線上にあり、地上に露呈した岩場を巨岩信仰のように敬ったのだろうか。北淡震災記念公園にある野島断層保存館には断層が風化しないようにその現場が保存されているのだが、地震後の調査によると、前回の活動時期は約2000年前と言われている。2000年前といえば、日本は弥生期である。全国で既に様々な信仰が行われていた遺跡は発見されているが、野島断層の移動で起こった地震により多くの死者が出たことも予想され、地震大国である日本で、地震災害に起因する慰霊信仰が行われていたとしても不思議ではない。もしくは、これは当時の弥生人が後世の者のために残した、災害の教訓遺構なのだろうか。
竹弊を掲げる五桂池の浅間さんも、中央構造線の真上に位置している。その現場は池から30メートル程の山の上にあり、頂上部は磐座状になっている。この浅間さんが、磐座信仰も内包するものであることは一目して判別できる。先人たちがその磐座を、中央構造線の一部の断層であると理解していたかは不明だが、単純に干ばつに伴う水信仰だけで、この場所を語ることはできない。構造線上の浅間さんは、小さな里のものも含めて地震鎮護を行っていたと思われる。
引用・参考文献
・岡田篤正「中央構造線活断層系の分割と古地震活動 : 日本の活断層の代表例として」
社団法人地盤工学会(土と基礎)41、1993年
・大鹿村教育委員会「大鹿村中央構造線博物館HP〈中央構造線ってなに〉」、1994年
・多気町教育委員会「立梅用水」、2014年
・県史編さんグループ 田中喜久雄「伊勢湾台風で一部露出―月出の中央構造線露頭地」
三重県環境生活部文化振興課県史編さん班(歴史の情報蔵HP)
・松阪市教育委員会「中央構造線粥見観測地」
・大塚弥之助「伊勢志摩地方の地質及び地形から推定される主要な断層」
地理学評論第4巻、昭和3年
・ザヤス・シンシア・ネリ「淡路島における災害と記憶の文化 : 荒神信仰を中心に」
国際日本文化研究センター、2007年
・地震予知連絡会「震災後の活断層調査結果から見た兵庫県南部地震の予測性について」
京都大学防災研究所、会報第67巻
・岡田精司「古代王権の祭祀と神話」塙書房、1970年
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