34 朝熊山経塚群

#34

 麓にある神宮の北東の鬼門を守る、朝熊山554メートルの頂上直下に鎮座する伽藍群が、金剛證寺である。”伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り”と歌に唄われ、江戸時代にお伊勢参りに訪れた者は、朝熊山金剛證寺の参拝も常とし、神宮との繋がりは深い。境内を歩けば分かるが、近年の建物が多いものの、素晴らしい寺院建築が並び、過去の賑やかな時代に思いをはせれば、その盛況ぶりを想像することは難くない。前回紹介したように、伊勢のお土産である丸薬「万金丹」は、この寺が発祥といわれている。

 弘法大師もこの寺と関係したと伝わり、真言密教の霊場として栄えた。修験者の多くがこの寺を拠点に活動していた様子は、山伏峠など周辺の山名からもうかがわれる。神宮を取り囲むようにあるこの金剛證寺と、伊勢市内の世義寺、勢和村の丹生寺、南島町の仙宮院は、修験道寺院として、その活動も活発に行われた。

 またその山名である朝熊山は、「アサマヤマ」とし、富士宮市の富士本宮浅間神社から分かるように富士山の別名である浅間山「アサマヤマ」と読みを共通する。事実この山の頂上は、好機に恵まれれば富士を遠望する最高の富士見台であり、当地の富士信仰が、富士火山を観望する災害信仰として独自発展していたと考えるなら、この山は、伊勢志摩を中心に広がる浅間信仰の中心拠点だったともいえる。

 朝熊山の経塚群である。昭和37年(1962年)、朝熊山頂直下に鎮座する金剛證寺の伽藍から、山の三角点に向かう途中の峰に、伊勢湾台風による倒木の整理が入った折に43基もの経塚が発見された。平安期中頃、人が滅びこの世が終わるという末法思想が生まれた。人々は次の再生の時代にも仏教を伝えたいと仏典を埋めた。後にはそれが、個人の念願祈願に変化し、藤原道長が1007年に、奈良吉野の金峰山(大峰山)に埋めた経筒は有名である。

 当時経塚は、数メートル掘られた穴に石を敷き詰めた空間に、経を入れた筒や他の副葬品と共に据え置かれ、その上には大きな石で蓋をされ埋められていた。出土品の中には、非常に貴重なもの含まれ、特に阿弥陀如来を描いた「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」は国宝に指定されている。発掘された埋経は、埋め戻されることはなく、金剛證寺の宝物殿などに納められることになったが、埋経されていた場所には、出土地点を明確に残すため、各々の場所に石塔が立てられた。石塔の建立は寄進者の募集が行われ、寄進者各々が思い思いの造形のものを立てた。現在残る石塔群は、そのときのものである。

 埋経は、43基発掘されているのだが、その内日付のはっきりしているものは、残念ながら6基に過ぎない。それでも、ここで改めて、その日付のはっきりしているものと、災害を含めた歴史年表を並べてみた。埋経は、末法思想・他界観の現れであり、当時の時代の変化や具体的な事象を反映して埋められている。その日付の終始30年は、ちょうど平安時代の終わりから、鎌倉時代への変遷期にあたる。平安末期の12世紀中頃は、一つの時代の終わりと巡り合わせのように、災害と政変が重なった。まさに社会的不安の高まった、激動の時期だった。

 1120年鳥羽天皇は、元号を元永から保安に改元した。実はこれは在位以来四回目の改元だった。最初の改元こそ彗星の出現によるものだったが、その後は、天変、疫病、干ばつ、台風、凶作、異常気象、飢饉、すべて災異によるものである。朝廷はその後も改元を繰り返す。1131年には、大治から天承へ改元したが、これは日照りが続く干ばつだった。1135年長承から保延は、大雨後にインフルエンザと思われる流行り病が各地で発生し、飢餓が追い討ちをかけた。1151年の久安から仁平では、防風や洪水が続き、内裏で天皇の御座所の仁寿殿が倒れている。神宮では、「伊勢国大風雨、豊受宮内外院併別当高宮上萬殿舎、門、垣或傾斜或破壊 」と記録にある。

 1154年は、北陸の富山付近で地震が発生し傷者が多数出ている。社会不安は高まっていた。

 朝熊山埋経で確認できる最初の年日である1156年(保元元年)は、保元の乱が起こっている。朝廷内の皇位継承争いに起因するこの乱によって、社会勢力としての武士の地位が一気に高まることになる。埋経は、戦乱の中5月に鳥羽法皇が病に伏せたことが原因だろうか。次の埋経の1159年は、平治の乱の年にあたる。権力争いの中で、貴族社会から武士社会への変革と、武士を二分していた平家と源氏の争いは、世の中を動揺させた。常に朝廷動向の鑑となっていた国家鎮守の宗廟である伊勢神宮とその奥の院であった金剛證寺では、それまでは貴族からの信仰を拠り所にしてきていたが、武士勢力が政界にも進出し、その圧力の只中にいた。実際平氏は伊勢出身であるし、清盛は3度神宮を訪れ、楠木の枝を切らせたとの話もある。禰宜の人事には、源平の要人らも関わっている。災害も連続し、時代の大きな変化のなか、神宮では以前述べたように、社殿が鳴動する程の動揺があったのではないだろうか。

 その後、平家栄華の時が流れるが、朝廷内外の政治的圧力は逆に高まっていた。その緊張感は神宮にも伝わっていたに違いない。1171年、朝廷は再び気象災害により改元を行う。大雨、風害、凶作、社会不安と、源平の政治的アンバランスが深刻化していた。

 そしてついに、1180年8月、源頼朝が鎌倉で挙兵するのである。その二か月前の6月、京都で台風並みの大風が吹いた。その気象現象は後に、「治承の辻風(竜巻)」と呼ばれた。鴨長明は時代の雰囲気を察知し、「方丈記」でその風を、「さるべきものの、諭しかなとぞ疑い侍りし」(しかるべき神仏からの諭しではないか)と記してている。

 そして歴史のいたずらか、同時期の1180年からの2年間、養和の大飢饉が起こる。その年の西日本は極端に降雨量が少なかった。鴨長明は、仁和寺の僧が餓死した死人を見つけては、その額に「阿」の字を書き込み、その数は四万二千三百になったと伝えている。大飢饉は西日本を経済・食糧基盤としていた平家にとって、兵や兵糧を激減させる大ダメージとなる。一方、東日本の農業は良作だったという。翌年1181年、清盛の息子、平重衡の南都焼討により東大寺大仏が焼失する。世の中は騒然としたに違いない。

 朝熊山埋経の最終年1186年は、恐らく前年に起こった南海トラフ級の文治地震を慰霊する意味があったと思われる。畿内各地で被害が出て、琵琶湖では湖岸が干上がったとある。「平家物語」には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、」と記されている。同年1185年に壇ノ浦の合戦が起こり、平家が破れ、平安時代が終わった。文治地震は、平家の怨霊によるものとされた。


 朝熊山の埋経は、神宮と一体をなしていた金剛證寺の時代への精一杯のシグナルだった。国家鎮守を任された中心的霊場は、43基の埋経でなんとか社会の動乱・災害を静めようとしていたのである。発掘された埋経に、神宮禰宜らの名前があることは、神宮と金剛證寺が同一の意志を持って経を埋めたことを物語る。その前後の時代、金剛證寺が無住の寺だったのは、神仏習合と仏教忌避のはざまで神宮禰宜らが麓から最低限の管理を行っていたからと考える。

 埋経はこのあと朝熊山から姿を消す。代わりに、神宮と朝熊山の時代へのシグナルは、以前触れた、神宮社殿などの鳴動に代わることになる。

 もう少し突き詰めて考えると、朝熊山の経塚群は、そもそもの神宮・朝熊山という場所が持っていた、普段は見えにくい国家鎮守の思想が、いっときに表面化したものとは言えないだろうか。それは図らずも、神宮創祀以前からそこで信仰された、富士信仰というアミニズムの延長線でという意味である。古きより人々は、朝熊山に登り、遠望する噴煙上る富士の神に、この地の無事を祈った。

 内宮神宮司庁横の大山祇宮に参拝し、自身の足で登山道を登り、金剛證寺、経塚群を巡り、頂上八大龍王社の横で、その雄大な国見の景色を眺めれば、その意味を容易に理解できると思う。蛇足だが、その登山は、北アルプス登山も格別だが、それとはあきらかに違う満足感を得るはずである。


引用・参考文献

・伊勢市「伊勢市史」、2011年

・石田茂作「伊勢朝熊山経塚遺跡と石塔群」金剛證寺、不明

・防災情報機構NPO法人「日本の災害防災年表」防災情報新聞社、2012年

・松阪市史編集委員会「松阪市史第一巻・松阪の災害年表」、1977年

・伊勢市立郷土資料館「伊勢の経塚」、1991年

・穂積裕昌「伊勢神宮の考古学」雄山閣、2013年

・河内祥輔「保元の乱・平治の乱」吉川弘文館、2002年

・平泉隆房「中世伊勢神宮史の研究」吉川弘文堂、2006年

・鴨長明「方丈記」(市古貞次訳)岩波文庫、1989年

・榎村寛之「源頼朝と斎宮についての書状・斎宮千話一話」斎宮歴史博物館HP、2010年

・小林秀(県史編さんグループ)「朝熊山経塚出土の白銅鑑-亡き夫の往生願い副葬」

 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班・歴史の情報蔵HP、2008年

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