33 忍者が繋ぐ伊勢と滋賀県甲賀

#33

 伊勢の朝熊山の金剛證寺で売られている万金丹である。伊勢発祥の丸薬として、江戸時代からお伊勢参りの土産として有名だった。この万金丹を、前回紹介した浅間石仏が多く分布する甲賀杣谷(そまだに)の修験者も、布教活動の中で、お札と共に持ち歩き、販売を行ったという。

 万金丹には、いくつもの発祥伝承があるが、朝熊山金剛證寺に関係するものと、伊勢市街に店を構えるものと二つに分かれるようである。江戸時代の中期には、伊勢の町には、同じような万金丹を売る店が数件以上並び、薬の名前を真似ていることへの抗議を行ったという記録もあるようである。相当な人気だったらしい。落語の有名な題目に「万金丹」とあるように、その落語の原型は上方あたりであるというが、当時は、江戸でも万金丹を知らないものは居なかったようである。現在でも、伊勢くすり本舗が金剛證寺と内宮おかげ横丁で、小西万金丹本舗が外宮外苑に店を構えている。

 甲賀市にある、有名な甲賀流忍者屋敷である。畿内周辺の子供なら、親に連れられて訪れた者も多いだろう。筆者も子供心に、隠し扉などに驚いた記憶がある。

 甲賀では修験霊場である飯道山の麓周辺、水口町南部から、甲南町にかけて、つまり浅間石仏の多く分布する杣谷地域において、「里山伏たちが集住した山伏村が点在し、そうした民間宗教者の世俗活動のひとつに、この地で盛んだった製薬や売薬があったと考えられる」と甲賀市史にある。現在この地での製薬業は、地場企業17社、キョーリン、参天、バイエル、森下仁丹など進出企業16社の一大産業となっている。

 戦国期に甲賀流忍者として活躍した竜法師の望月家は、もともとその身分は、杣谷を見下す飯道山飯道寺に属する修験者で、江戸時代になり山伏・修験者として修験道の布教を行いながら、万金丹の販売を行った。修験者としての襲名は望月本実といい、飯道寺の一番坊だった岩本院から大峯に入り、二代目本実は醍醐寺三宝院から龍法院の院号を得ている。

 望月家主殿坊家(もちづきとのぼう)には、虚空蔵菩薩の御影や薬袋に刷ったと思われる「伊勢朝熊岳 霊方万金丹 護摩堂明王院」と記した札の版木が伝わるとともに、万延元年(1860年)に焼失した明王院再建の趣旨を認めた版木も残る。望月家が明王院にも所属して勧進の祈祷を行い、当時金剛證寺で盛んだった虚空蔵信仰の中で、その菩薩の御影を刷り込んだお札を信者に授けるとともに、万金丹の販売に関わったことがわかる。

 甲賀市の飯道山664メートルにある飯道寺は、真言宗当山派先達三十六寺の中でも有力な修験道寺院だった。平安期の観音立像も伝わり、鎌倉期には普賢院宝持坊と呼ばれ、明治の廃仏毀釈で修験道が廃止となり廃寺となったが、その伽藍は飯道山の頂上部にあって、最盛期には50以上の坊が存在し、所属した修験者の数は、数百人単位ともいわれていた。東海道を見据える交通の要衝に位置して、当山派(真言宗修験道)の全国への布教拠点であり、修験道の中心地である大峰山当山派諸堂の管理権限を把握、熊野新宮の新宮庵主霊光庵には長く庵主を置いた。

 また知多郡大谷村の富士講の講元である甚左衛門に、飯道寺の梅本院より 文化7年(1810 年)に先立号の免許が出されていることからも、当山派に属した富士登拝への大きな影響力もうかがい知れる。

 東北から四国までの広い地域を活動の範囲とし、布教にあたっては、愛宕神社・伏見稲荷大社・多賀大社・石山寺・竹生島宝厳寺など、畿内周辺の有力寺社の配札など勧進も請け負った。伊勢志摩では、上述のように、当地修験道の中心拠点だった朝熊山金剛證寺の勧進も請け負っていた。現在でも飯道山の頂上には、修復中であるが、慶安3年(1650年)に再建された飯道神社本殿が、麓には明治25年に再興された飯道寺が神仏習合時代の面影を残している。

 白装束で祈願する人物が、今回の甲賀訪問で出会った郷土史家の吉永博氏である。実はこの方ご自身が修験者だった。しかも、比叡山延暦寺で天台座主から正大々先達を補任されている立派な方だった。写真は、平成三年七月、二十三年前のもので、お住まいになられている甲賀市東内貴(ひがしないき)の浅間さんの様子である。智拳印を結ぶ大日如来である浅間石仏に、竹弊を奉り祈祷をされている。

 東内貴では、毎年7月初旬、杣川河岸の浅間さんを拝み、その後、約1キロ北の東内貴大日堂横に浅間さん(祭壇)を祀り、再度礼拝する。浅間さんの祭りが終わると、集落の人が集まって、直会で豆腐をいただく。この習慣は、古くから続いているものだという。豆腐というものは精進料理であって、潔斎を意味し、薬効の期待もその中に内包している。

 現在、吉永大先達は既に御年八十六歳である。足を悪くされて不便をされているというが、句会の選者を勤められ、元気な文化活動を送られている。氏は、元は勤め人であり、修験者の家の出身ではないが、若いころに、途絶えていた飯道山修験道の再興を発起する方々に誘われたという。全国の霊山を歩かれている。そして身近にあった修験道の遺産であった浅間さんに興味を持ち、お調べになられた。調査には、富士にもお出かけになり、志摩の浅間さんにもやって来ている。修験道の伝統が、今だこの地にも流れている。

 吉永氏からは浅間さんの様々な資料を預かり、ご鞭撻を頂いたが、未熟者で未だ整理しきれていない。資料をお預かりした時には、もったいなくも、「江州飯道山行者講」の行者旗と、永年念願の鹿皮尻当ても授かっている。この調査に、少し重みが加わったように思っている。


引用参考文献

・松本時彦「改訂増補 正続神都百物語 復刻版」古川書店、1972年

・ 立川 志の輔 (監修), 古木 優 (編集), 高田 裕史 (編集)

 「千字寄席―噺がわかる落語笑事典」PHP文庫、2000年

・甲賀市史編纂委員会「甲賀市史」6巻、2007年

・一般社団法人滋賀県薬業協会「滋賀のくすり HP」、2006年

・信楽町観光協会「飯道山惣図絵」掲示板

・「近江・若狭・越前寺院神社大事典」平凡社、1997年

・日本福祉大学知多半島総合研究所 研究員 山形隆司

 「16・17世紀の尾張国知多郡の富士信仰 富士山登拝と浅間社の勧請」、2015年

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