32 甲賀杣谷 古琵琶湖と干ばつ

#32

 石仏の傍らに、浅間さんの神木として、大枝をふるっていた榎木は、平成25年の台風で倒れてしまった。今は杣谷(そまだに)独特の田の畦にあって、この大日如来一体で杣中村を守っている。

 熊野灘沿岸に広く分布した浅間さんは、伊勢志摩、そして度会・多気と移り、松阪、伊賀へと広がった。そしていよいよ、その信仰範囲は、この滋賀県南部が北限のようである。特に甲賀市を流れる杣川周辺、杣谷には、浅間信仰、浅間石仏が集中している。やはりここでも、その集中の原因をみてみると、自然災害を起因としているようである。内陸部の平野地である甲賀市周辺は、積乱雲が起きにくく、国内でも有数の干ばつ地域だったが、それにも増して、この杣谷の人々を悩ましたのは、この土地独特の土壌地質だった。

 この地方の地質・地理的事情を語るには、太古からの琵琶湖の歴史を紐解かなければならない。実は琵琶湖は、500万年前、現在ある滋賀県の中心部から約45キロ南東へ離れた、三重県の伊賀上野周辺から移動してきたものなのである。移動の途中では、発生や消滅を繰返しながらも、長い年月をかけて、周辺地域に地質的影響を及ぼしてきた。過去あった湖は、それぞれを年代順に大山田湖、阿山湖、甲賀湖、蒲生湖、堅田湖、そしてその総称を古琵琶湖と呼ぶ。

 マップを見るとちょうど、当時の阿山湖と甲賀湖が重なった辺りが杣谷にあたる。火山灰の降った湖の水中では細かな粒子が静かに沈殿して、百メートル以上の厚さの粘土層となった。その重粘土層は、稲の生育に重大な欠陥を及ぼしたし、数年毎にやってくる干ばつでヒビ割れた。それにおいても水が不足していた杣谷では、水を確保するため、年中水を張っていた。しかし田にヒビが入ると、たちまち水は失われた。この地では、一年を通して田を守る作業がおこなわれた。冒頭写真に写る背の高い田の畦は、水を逃さないようにうず高く積まれたものであって、畦に乾燥で出来る亀裂は1メートルを越えることもあったので、その表面は保湿を目的とした職人的な塗りで固められた。

 田に年中水を張ると述べたが、もちろん灌漑開発も考えられた。しかし、古琵琶湖の湖底だった平地は、陸上となってからは、まんべんなく侵食され、平地が隆起しただけの小高い山には深い谷が存在せず、灌漑に十分な水を確保することはできなかった。グーグルマップは、この地域の樹枝状に細かく侵食された地表を映している。

 平地で多少でも水を逃さないように作られた溜め池には、必ず大きな木が植えられた。樹木が湿気を呼ぶからてある。徹底的に、水を逃さない対策がなされた。この乾燥に弱い土地の土壌は、長く中世・近世のままだった。実際に改良され、現代的な乾田となったのは、1970年代に大原ダムが出来てからである。

 写真の古文書は、杣谷にある北内貴(きたないき)の川田神社に残された、明和七年に書かれた富士登拝についての覚書である。川田神社では今も、北内貴村の浅間神事が続けられている。写真は、毎年行われる古文書の虫干しの折りに、地元郷土史家で、天台宗大峯修験大々先逹である吉永博氏が撮影したものである。


覚書
富士山八年以前之願状 此度相談之上
弐人返礼参り申候  壬六月九日立 十五日二御山
へ被上廿三日下向 右七日めばん二村中女男共打寄
寺二而御山をとり致し三寸かさ而弐こんいわい
御山のかたち二御平三本切其ばん二御山
をとり十人衆致被則十人わんじょう
善心、道和、浄宗、太郎兵衛、長三郎、治兵衛
武兵衛、又兵衛、仁兵衛、藤七十人をとり
被致申候、右路用弐人二壱両二分
相談之上 遣し申候   以上
(署名略)
明和七年 寅壬六月


 明和7年(1770年)は、全国的な干ばつとなった年で、「明和の大干ばつ」として記録されている。幕府は年貢の収納率が、最低に落ち込み、極端な緊縮財政を余儀なくされたと記録にある。各地で被害が報告され、京都では乾燥による延焼を恐れて大文字焼きも中止された。

 その上で、覚書の前後の状況を吉永氏の話から察すると、杣谷においても大干ばつに見舞われて、修験者に雨乞い祈祷を依頼したようである。おそらく村山修験に属する者だったと思われる。覚書には、既に八年前から富士登拝の願いを届けていたふたりが、雨乞いの返礼として、富士に代参したことが記してある。そして多分、代参の間に雨が降ったのだろう。ふたりが戻ると、さんどがさ、十人おどり、などが登場する騒ぎで、村中が祝ったとしている。

 また、この覚書をよく見てみると、杣谷の人々のしたたかな生き方も垣間見れる。「弐人返礼参り申候」とあるが、そこに「雨乞い」という文字はない。おそらく、「返礼参り」という言葉の使い回しは、慣用句として使われたのである。本来ならば、「雨乞いの返礼参り」となるのが自然である。この頃になると、村人たちの富士登拝は、恒例化していたと考えられる。「返礼」とは、当然に「雨乞いの返礼」表す言葉だったのである。

 村山浅間大鏡坊に残る宿帳では、明和から少し後の宿泊者数が把握できる。富士以西にあって、その人数が多いのが、愛知県の知多、そしてこの甲賀だった。安永二年(1774年)から文化二年(1805年)の31年間で、甲賀からの宿泊者は387人に上った。一年間で、10人以上のペースである。代参の二人は、8年間順番待ちをしていたと考えられる。

 道中を含めた富士の登拝は、信者にとって修験の行でもあったが、別の見方をすれば、いわゆる見聞旅行だった。杣谷の人々は米作りの過酷さを理由に、富士登拝の”楽しみ”を得ていた。奉行所への富士登拝の届けは、常に水と戦っていたことが周知となっていた杣谷においては、雨乞いの返礼参りが理由ならば、すんなりと認められたのである。「雨乞いの返礼登拝」という言葉は、登拝が繰り返されるうちに、簡略化され、「返礼参り」となったと思われる。杣谷の人々は、他所には例を見ない干ばつ災害と常に向き合っていたが、一方で、それを利用して、抜け目なく、富士登拝という娯楽を、手に入れていたのである。


引用・参考文献

・甲賀市史編纂委員会「甲賀市史」6巻、2007年

・川辺孝幸山形大学講師「古琵琶湖層群ー上野盆地を中心に」

 冊子アーバン・クボタ29号、1990年

・講談社刊「日本全史」、国会資料編纂会編「日本の自然災害」

・遠藤秀男「富士山表口〈村山〉の歴史」村山浅間神社、1967年

・郷土史会 吉永博「特別講座(水口の歴史)《近江甲賀の富士浅間信仰》」 

 水口町立中央公民館、2000年

0コメント

  • 1000 / 1000