31 神宮・神馬

#31

作者不詳錦絵:安政大地震繪「神馬」:国立国会図書館デジタルコレクション

 江戸末期、東南海トラフを震源とする安政大地震が、関東から四国方面を大きく揺らし、その死者は6,000人ともいわれた。伊勢地方でも、二見で震度5~6、以前紹介したように鳥羽国崎で22メートルの津波を記録した。その後、その地震で助かった者の着物には、伊勢神宮の神馬の毛が着いていたという評判が広がった。つまり、伊勢信仰の篤いものは、地震厄が除けられ救われるという噂が流布されたのである。この錦絵はその評判にあやかり描かれたもので、鹿島大明神が引く神宮の神馬が、地震を起こす鯰を蹴散らしている図が描かれている。また図をよく見ると、詳細に馬の毛が書き込まれていることも分かる。そして神宮の神馬は鹿島大明神によって引かれており、ここにおいて、地震鯰を押さえつけていた鹿島神宮の要石が、神宮の神馬に取って代わられたことも分かる。出典の安政大地震繪には、この類型の絵が多数載せられている。

 以前9回目の投稿でも、伊勢のかんこ踊りのシャグナは神宮の神馬の毛であり、その毛により神宮の霊験が地震災害厄を祓っていることを述べた。もともと日本には古代王権時代から、災いが起きた後、厄祓いに天皇に馬を献上する習慣があったようである。それでは、神宮の神馬と地震が結びついたのはいつのことなのだろうか。

内宮の空勇号(そらいさむごう)

 天皇陵の鳴動については第27回の投稿で触れたが、神宮でも微弱地震なのか不明だが鳴動が確認されている。日本紀略に平安期の長保2年(1000年)7月13日に「大神宮宝殿鳴動也」とある。神宮においても鳴動は怨霊や差異として扱われ、古墳・陵墓の鳴動・震動という怪異現象が、都を離れこの伊勢の地に持ち込まれていたことは確かである。そもそも神社という形体は、古墳の時代が終焉を向え、その代替としての役割を持って広がったとも考えられており、天皇家の宗廟である神宮が、陵墓と同じように鳴動することに不思議はない。

 その後、鎌倉期の弘安4年(1281年)には、両宮の風社に鳴動があり、神殿(正殿)からの赤雲を伴って西方へ渡ったとし、蒙古襲来による元寇に神宮が神威を現わしたことを示している。また、南北朝期の観応2年(1351年)に、外宮宝殿、内宮荒祭宮、外宮正殿が鳴動し、観応の擾乱での王権擁護の神威を伝えている。

 また神宮では、社殿が鳴動するのと同様の意味で、世の中の動乱に反応して厩舎の神馬が逃げ出すという事態が起こっていた。嘉吉3年(1443年)9月23日、偶然なのか、雷が起こり神馬が山中を駆け回った。翌日には戻ったのだが、その躰は汗をかき白く泡をはいていた。これは同日にあった天皇の暗殺事件において、逃れた御門が無事だったという事態に、神馬が夜のうちに都へ飛び、御門を神威により救ったのだという説話を結びつけて語られた。

 そして、文安4年(1447年)6月26日夜、内宮正殿と荒祭宮が鳴動した。大きな物が投げられたように音が響き、宿直していた祠官は仰天した。その夜神馬は扉を開けていないのに厩舎を出て、山中を駆け回り、内宮より外に出て居なくなったのである。28日になって、厩舎に戻ってきていたが、その姿には鞍を着けた跡があり、汗を出水の如くかいていた。禰宜らは、その現象を悪事ではなく善事と受け止めた。馬には天照大神が乗っていたとしたのである。それまで目に見えなかった天照、その姿こそ現れなかったが、その存在を感じる現象が起こった。そこにおいて、神の鳴動、地震は、神馬と結びつけられた。

 実際にはこの事態も、「尊神擁護、天下太平」として、神馬は王権擁護に奔走していたと認識されていた。しかし、その事象自体はその後、隠れていた神宮の災害厄徐の観念が顕在化したと思われ、独り歩きしていく。武士の時代、室町、戦国においては、朝廷国家の安泰の祈念に使われたが、江戸の世になり民衆の時代になると、神威は民衆の現生御利益に降りていった。中世日本においては、地震を起こす世界魚は、龍とされ、それは鯰へと変化していったが、その頭を押さえるのは鹿島大明神の剣であり、要の石だった。

「大地震妖怪神宮退治之図」国立国会図書館デジタルコレクション

 江戸期の図だが、妖怪退治が相談されている列の上座に、天照大神と鹿島大神が並んでいるのが見える。遡って中世平安期の延喜式を見ると、当時神宮と名の付いた神社は、伊勢神宮と鹿島・香取神宮だけだった。そもそもは伊勢のふたつの宮と鹿島・香取宮で、東西から国土の地鎮を行っていたのだろうか。だが、鹿島大明神は大衆の中で弄ばれて、神威を失いつつあった。また、度重なった地震の脅威を押さえ切れなかったこともあった。もちろん、現実にそんな能力はなかった。

 一方、伊勢の神宮の民間信仰は、御師の力により全国に広がっていった。古の時代、もともと伊勢の地は200キロを超えて富士と繋がり、地震を含め天変地異を収めていた。鹿島の要石に代わり、神宮の神馬が鯰を押さえつけることを、人々は何の抵抗もなく受け入れたと思われる。



引用参考文献

・山田雄司「怨霊・怪異・伊勢神宮」思文閣出版、2014年

・「神宮遷宮記3」神宮司庁編、1992年

・「看聞日記」

・「日本記略」

・「続神皇正統記」

・国立国会図書館デジタルコレクション

・国立天文台編「理科年表」、2011年

・桜井龍彦「災害の民俗的イメージ」立命館大学歴史都市防災研究所、2005年

・黒田日出男「龍の棲む日本」岩波書店、2003年

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