30 神島
#30
元旦の未明、神島ゲーター祭りのアワが持ち上げられた。この情景こそ、富士のシルエットを模しているのだと考えている。茅の輪くぐりの輪に、わざわざ白く化粧を施しているのは、雪を被る富士の頂上部分を表現しているし、周囲から輪を激しく突き差し入れる竹竿の動きは、火山活動の様子を現わしている。またその竹竿も、富士の典型的形状を示すように裾野へと末広がっている。「アワ」とは、富士山の近隣で奉られていた伊豆の火山神である「阿波神」であろう。そして朝方にその神事が行われる時間こそ、その瓜二つな富士のシルエットが、日の出前の薄赤く染まりかけた東の方角に現れる時間なのである。
二見浦からの夜明けの富士。2015/7
神島の最高峰の灯明山は標高百七十メートルほどだが、富士を望めるその頂上部は以前は鳥羽富士と呼ばれていた。伊勢地方全体の鎮守山である朝熊山(あさまやま)の頂上からみる夏至の朝は、ちょうど神島の向こうに富士が見え、その富士の頂きから朝日が昇る。神島の堂にある薬師如来は、以前は富士の主祭神大日如来だった名残を残したのだろうか、いつもとは違い薬壺を持たず、大日如来の定型である法界定印を結んでいる。対となる智拳印を結んだ像は、いまのところ未調査である。ただ、薬師堂のそばには役行者の石像が置かれ、祭り当番の「宮持」が大晦日夜半に行う垢離取りを含め、修験道の影響は明らかである。富士信仰の講が、最近まで引き継がれていていたことも記録に残る。村は三つに区分けされているが、それぞれに守護神がいる。港でその守護神を祀る石碑は、浅間さんでは「お富士石」と呼んでいる急勾配富士形の石とそっくりである。
島に伝わる伝承や通説によると、アワは太陽をシンボル化したものといわれているし、太陽の虫下しともいわれている。また正月に行われるゲーターは、年初を意味する「迎旦」が「迎頭」(げーとー)に変化し訛ったもの、さらに「迎太歳」だともいわれている。実際この神島は、以前から触れている、奈良三輪山から真東に進む東西太陽道上あり、太陽道が伊勢平野に出ると、伊勢富士である堀坂山、宝塚古墳、斎宮と並び、海に出て、太陽道の終点が神島となる。伊勢湾の入り口、伊良湖水道の厳しい海洋上に浮かぶ最果ての孤島は、古代大和政権の太陽信仰の祭祀地にふさわしく、また政権の東方進出の要衝でもあったと考えられ、アワが太陽であるという説の信憑性もある程度認められる。
萩原秀三郎氏はアワを茅の輪と比類し、龍蛇からしめ縄への関連をあげて、アワもそれに関係していることを示唆しているが、確かにそれも自然な流れであると思われる。志摩周辺に、蘇民将来伝承が強く残ることも、各家が年中玄関にそのしめ縄を着け放しにしている様子から明らかであるし、アワが伝承にみえる災厄除けの輪であることは十分に考えられる。
円形のアワを竹で突き上げる行為は、一志郡美杉村真福院の餅つきである「千本つき」を思い浮かべる。臼の周囲から、大勢が持ったたくさんの棒状の杵を差し込んで餅をつき、最後の一升は天井餅と呼び、白く丸く出来上がった餅を、杵で空中に持ち上げ突っつく。その餅つき動作は、神島のゲーター祭りで白く化粧された丸い茅の輪を、長い竹棒で突き上げることに通じている。
餅つきの行われる真福院は、南北朝の動乱で活躍し、伊勢国を治めた北畠親房の三男北畠顕能が信仰を篤くした寺院である。三多気の桜として有名な参道を飾る桜は、顕能が寄進したもので、三月になると棚田に映る桜の姿を眺めに今でも遠方からの見物が絶えない。南北朝といえば、このゲーター祭りには、このような言い伝えが残っている。
天に二つの日輪なく、地に二皇あるときは世に災いを招く、若し日輪二つあるときは、神に誓って偽りの日輪は是の如く突き落とす
この言葉から、ゲーター祭りは南北朝時代が起源となっているともいわれている。出陣旗や兜に日輪を配した北畠氏は伊勢神宮とも繋がり度会家行の援助を受け、志摩の海民などを率いた。一方神島は、島民の家の床の間には必ず「天照皇大神」が掲げられるし、ゲーター祭りの祭神である八代神社に伝わる古代の鏡や刀剣柄などの宝物は、斎宮跡からの出土物と意匠が通じ、直接的に神宮に繋がる。神島のゲーター祭りにしろ、美杉村の真福院にしろ、同じ伊勢信仰と北畠氏の政治的範囲の中でのことと考えれば、両者が同じような神事を執り行っていたと考えても不思議ではない。神宮が富士信仰を内包していたとの考えをベースにすれば、すべてが繋がるとも思える。
神島の氏神「八代神社」(やしろじんじゃ)は、”はちだいじんじゃ”とも読め、「八大神社」の祭神である八大龍王を主体としたものとの見方もある。八大龍王とは、古代インド仏教からくる水の神である。しかしながら、「八代神社」としたのは、そう古いことではなく、明治30年に境内にあった13社の社を合祀した折に、八代神社としているものである。八代は、「沢山の」に通じ、他所では「八柱」としているところもあるが、「たくさんの祭神を奉った神社」を意味していると思われる。
また、廃仏毀釈の影響を受け、八大龍王に通ずる八代神社と名付けたとするならば、朝熊山金剛證寺にある八大龍王社から見る富士山が、神島越しに望まれたからだとも考えられる。金剛證寺と対をなした伊勢神宮にある正殿床下の「心御柱」には、元々八大龍王の思想が斎(ものいみ)されていたともいわれ、位置的にも神宮、富士との関係を思考しやすい場所だった神島は、より神性が脚色された島となっていったと考えられる。
近世において神島は鳥羽藩の流刑地であって、志摩八丈と呼ばれていた。島のある場所は、伊良湖水道の中央に位置して、海流の激しい海に囲まれていた。流刑者はとても自力で島を離れることは出来なかった。また島内の生活環境も、常に慢性的な水不足に悩まされ、厳しいものだった。その中にあって、流刑者や住民は、各方面から信仰を持ち込んだのではないのだろうか。流刑者は入れ替わりにやってきていた。その中には当時の政治思想に合わない僧や修験者、山伏などもいたと思われる。住民らは、厳しい生活を乗り越えるために、様々な信仰に心を寄せたのだろう。小さな島に社の数が多すぎて、明治になって13もの社が八代神社に合祀されたのは、そのありさまを物語っている。
神島に古代から継承されてきた神事には、様々な信仰が加わった。現代になってゲーター祭りに色々な推測が論じられるのは、そのためである。けれど、輪をアワと呼ぶことさえ、後からのものかもしれないが、現在残る祭りの根幹たる「輪」を扱う祭式とその前後の神事だけは変わらなかったのではないだろうか。
大晦日の夕方に、宮持の家が始めるのに合わせて、念入りに準備された大豆で豆まきが行われる。この地では年の終りが、節分となる。年越しに際して邪気を祓うのである。そしてチガヤ(茅茅)で十文字に縛られた「モローモ」と呼ばれるミカンが、宝物として稚児によって配られる。それらは、すべての住民の家内で共通の神事として行われる。
純粋に厳しい島の生活を支えあった島民が集い、素朴に太陽を奉る祭りは、気が遠くなるほどの長い間続けられてきた。日輪の力が弱まった冬至を経た後の、太陽の蘇りである元旦において、島民全体が東の浜に集まる。日の出とともに、その太陽を模した輪は、参加するすべての男衆が手に掲げる、数え切れない竹のエネルギーを得て、復活するのである。
祭りのあと、実際には島の北にある「東の浜」で日向祭が行われる。ゲーター祭りが無事行われたことを、当番だった宮持が八代神社の宮司に報告するのである。この場で神として扱われる宮司が背にする方向は、正確には東の方向を向いていない。やや北にずれ、富士を向いているようである。
島に住む天野彰孝氏によると、神島の年中行事で津波災害に関するものはなく、島民の弔いに関するものは病気や海難事故などに限られているという。実際、島を歩いてみても津波に関する災害供養塔のようなものは見当たらない。嘉永7年(1854年)の安政大地震による大津波の被害を記録した「鳥羽市松尾町松本家文書」によると、答志島の桃取や答志村においては、鳥羽市内と同じように津波の被害を大きく受けたことが記録されているが、神島、菅島、坂手島にはさしたる被害は及ばなかったとしている。
天野氏が説明するには、神島にやってくる、東南海トラフに伴う地震が起こす波の進路想定では、波は南方向からやってくると予想され、神島は南方向に相岬、弁天岬が突き出しており、それが今までも押し寄せる津波を両側に切り分けていたという。北側に立地した村は島に守られてきたというのである。確かに地形図を見るとその様子がはっきりと判別できるし、島の南東側の海岸は幾度も受けた津波の波動で大きく浸食され切り立っていることが分かる。
以前行われた民俗調査によると、島ではすでに途絶えてしまったが、弁天岬を奉る神事があったという。それは、平静から荒波が押し寄せている岬の先端まで、足元の悪い岩場を超えて行われたという。今では、何の神事か知る由もないが、恐らく津波除けの神事を弁天岬に行っていたのではないのだろうか。神島という名前の由来は、島自体が神となって島民を守ったことによるかもしれない。
引用参考文献
・江崎満「伊勢志摩の富士信仰を訪ねて」鳥羽郷土史会、2014年
・萩原秀三郎「神島」 井場書店 、1973年
・鳥羽市史編さん室 編「鳥羽市史」 鳥羽市、1991年
・吉野裕子「山の神」人文書院、1989年
・山本ひろ子「柱のダイナミズム」
季刊「自然と文化」33号日本ナショナルトラスト、1991年
・石原義剛編集・中田四朗「海と人間・三重県漁村災害史の研究」
鳥羽・海の博物館年報、1991年
・穂積裕昌「伊勢神宮の考古学」雄山閣、2013年
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