29 神宮・心御柱
#29
遷宮後も外宮旧殿地に残される心御柱。中世以降は覆屋(おおいや)に納まる。
建築出身の評論家である井上章一氏は著書の「伊勢神宮-魅惑の日本建築」(2009)で、伊勢神宮の心御柱について、江戸期に活躍した尾張の学者である天野信景の覚書「塩尻」を引用している。
「建物をたてるさいには、どこでも地鎮祭がおこなわれる。そして、この祭礼は、敷地のなかほどへ柱をたててからはじめることになる。神宮には、その儀礼的な柱が、そのままのこされているのだ」(井上氏訳をそのまま掲載)。
さらに、引用し。
「今日の風俗も家作る始めに先柱立(まずはしらたて)とて一株の柱を立て、工匠祝するを思ひやるべし」。
とし、今でも家づくりへとりかかる前に、柱たての儀式をおこなう。そのことへ想いをはせたまえというのである、と注釈する。もう一度井上氏の説明するのには、(過去からの)「第一の神秘」という見方は、すてられた。神宮だけの特別な秘事としては、もう位置づけられなくなっている。地鎮祭にさいしては、どこでもたてられる柱の一例として信景は受け止めた。ごく一般的な儀式の、形をかえた遺制として理解したのである。
言えていると思う。建築的観点からいう井上氏の説明では、”伊勢神宮の床下には、心御柱(しんのみはしら)と呼ばれる柱が、埋め込まれている。そして、その柱は床下の板や梁に、とどいていない。床下より低い位置で、柱は途切れている。つまり何も支えない柱が、そこには立っているのである。”
神宮の歴史の中で心御柱は、口にしてはならない秘儀とされ、それまでは何のための儀式なのかすら分からなかったので、様々な秘密めいたことがささやかれてきた。江戸期にそれに対して物申したのが、天野信景だった。井上氏は桂離宮を評した本でもそうだったように、趣旨に合った事実を忠実に並べていく手法で論述を進めていく。ここでも、本人はそうとは言わないが、伊勢神宮がまとう神秘めいた、秘儀のベールを一枚剥いでいると思う。ただここでは、秘儀の種明かしをすることが目的ではなく、井上氏の指摘するところが非常に重要になる。
つまり、心御柱の儀式は、間違いなく井上氏がいうようにただの地鎮祭であり、しかし、地鎮祭そのものの起源を問うならば、取りも直さず、あの方座浦・志島の浅間さんの幣と同じく要石の儀式を行っていると思われるのである。心御柱は神の依代(よりしろ)であることは旧来の意見と一部符合するが、神秘的宗教的でもなく、もちろん男性そのものでも何でもなく、ただ地鎮祭を行い、外宮、内宮ふたつの柱=幣は要石となり、国土の地中にいる龍を押さえつけ、富士火山の地鎮を行っていると考えられる。
志島の浅間さん。富士に見立てた砂山を奉る。(写真:江崎満氏)
神宮の詳細祭祀は、やはり岡田精司氏の説明を参考にしたい。心御柱についても詳しい。
鎌倉後期の心御柱記等によると、心御柱は長さ五尺、径四寸の木柱で、白布を全体に巻き榊で飾ったものであった。当時は下方三尺を地中に埋めたといい、その周囲に天平甍(あめのひらか)という平たい円盤状の土器数百枚を積み置いたものである。遷宮の際には、ご神体を納める御樋代やそれを納める御船代の用材奉伐に先んじて山口祭と同夜、木本祭において伐り出される。心御柱の奉献も鎮地祭のあと同日深夜に行われるのが古儀で、「神宮最極秘」とされてきた。遷宮の時に古い社殿が取り壊されても、心御柱だけは古殿地にそのまま次の遷宮まで、覆屋をかけて二十年間残される。
伊勢神宮では「年中三節祭」といって、九月の神嘗祭と、六月・十二月の月次祭を最も重要な祭りとしている。一年中で内宮の正殿に御饌を献進するのは、この三度のときだけで、それを「由貴大御饌」の供進と称している。いずれも十六日夜と十七日晩方の二回供えるもので、内宮の場合は御贄行事よって調理された大御饌を、大物忌という童女の手で正殿のに供えるのであるが、「建久三年皇太神宮年中行事」では〈御殿下〉と記しているように、正殿の床下の心御柱の前に御饌の案をすえるのである。それは明治初年の神宮祭式の大改正まで、変更することなく一貫して行われていた。この大御饌は祢宜を先頭にして正殿の前まで運ばれるが、床下に入ることができるのは大物忌ら物忌の童女とその介添え役の物忌父という下級神職だけで、彼らの手で床下の三ヶ所に燈火をともして供進を行うのである。
さらに建築評論家の川添登氏によると、神宮の明治の大改正までの古儀を記録しておくために、「皇大神宮旧式祭典図」が作成された。それらの中で、「九月十六日由貴大御饌供進図」では、つまり十六日の前夜祭では正殿の扉は閉じられ、十七日夜の図「九月十七日神嘗祭正殿御扉奉開図」では、正殿の扉が開け放たれているのがみえる。明治の資料で検証する難しさはあるが、それでも三節祭において心御柱は地元の神領民によって奉られ、正殿は天皇によって奉られていたものと考えてもよさそうである。神宮の祭祀においては、土豪の童女である大物忌と、斎王・大神宮司・禰宜など都出身の祭人が二重構成となって執り行っていることは松前健氏も触れていることであるし、少し範囲を広げるなら、神宮でもそうだが信州長野の諏訪大社でも、神領民や氏子だけで行っているお木曳き・御柱祭りの里曳きなど、数メートルもの大木が街を移動していく雄壮な様は、同じく祭祀が神社と氏子の二重構造となっている状態を表している。
方座浦浅間祭り。地鎮する幣を酒で清めている。
神宮の正殿の初期様式は中国風の廟のような基壇建築だったと論じた建築史家の丸山茂氏は、心御柱にまつわる事件事象についても詳しくまとめている。
応和2年(962年)、式年造替(遷宮)に向けて建設中の新殿で、心御柱の位置が違っていることが分かった。さらに調べてみると現正殿の柱の位置も正しくなかった。先例のないことなのでそのままにし、皇大神宮に謝したとある。詳しく見ると、もともと前回延長2年(925年)の遷宮のときから、その位置は間違っていたという。原因を説明すると、「近代憚り忌むこと有るに依りて、多くは本の穴を避けて之を立つ」としている。つまり前回の遷宮で柱を立てた穴は古く穢れているので、少しずらして新しく清浄な場所に立てたと説明している。同じような心御柱の位置、傾きなどに関する事件が、天仁2年(1109年)、天永元年(1110年)、保延4年(1138年)、久安5年(1149年)、建久9年(1198年)、文保元年(1321年)と何度も繰り返された。
神宮内の異常・怪異は、室町時代になって神宮の造営修理費の不足から、それを幕府に催促する理由に使われたが、鎌倉期にはまだ幕府の神宮信仰も篤く予算は十分にまかなわれていた。だがその一方で、運営上様々な要因が複雑に重なっていたことが分かる。それは、古い因習を守ることであったり、新しい場所には清浄を感じ古い場所には穢れを感じたりする習慣、位置そのものの正確さを重んじる考え、神同士の同居を嫌うことなど、神職独特の考え方によるものや、内宮・外宮の対立、とても長い時間の中で起こる時代の変化などが相関的に矛盾を生んだ結果起きているものなのである。遷宮の為の仮殿状態である正殿に、さらにその仮殿を作らなければならない融通のきかない状態になりうる事象もあった。ただそれを第三者的に離れて見てみると、それらは一種茶番的な事象にも見えてくる。よく考えてみると、当初の神宮創建の時代から心御柱の位置は、どうでもよいものなのではないのだろうか。神宮最極秘の神事において、これだけの間違いが起こっても、祭儀は粛々と続いているのである。
そこで心御柱の有り様を、当時の大和政権の東方進出と、これまで述べてきた富士浅間信仰における幣・要石の役割、そして両宮と二見浦の二等辺三角形が指す富士、という面から考えてみると、中途半端な長さの心御柱の姿からは、まず諏訪大社の柱のように本来は十数メートルもの長尺だったものが短く切り取られ、さらに神宮の正殿が後からその短くなった心柱の上に覆い被さるように建てられたような姿が想起される。つまり、正殿はただ以前の信仰の歴史的遺物の上に、支配的な状態を示すように被さる状態であればよく、柱が正確に建物の中心であるとか、以前と同じ位置であることは重要ではなかったのではないだろうか。アマテラスの住まう正殿というのは、大和からきた新しい文化・信仰的勢力であり、その正殿が心御柱の上にありさえすれば、それで目的は達成されているのである。外宮から内宮への御贄行事が、地方政権の服属儀礼だったという岡田精司氏の指摘などは、その様子を具体的に説明しているものなのである。
だか言い換えれば、心御柱=幣は取り払われず残された。国家の宗廟において、アマテラスと一緒に、国の鎮守を任された。元来そこにあった浅間信仰の地鎮という、伊勢の人々固有の民俗的な儀式を否定しながらも拒絶はせず、寛大にその考えを飲み込んでいったような動作をそこからは感じる。すでに何百年もそれを続けて来ていた人びとにとって、その変化は非常に振幅が大きく、戸惑いが先に立ったが、大切なその場所で大和と伊勢志摩国の共存が図られた。
飛躍するが、心御柱と神宮正殿の位置関係は、竹取物語のかぐや姫が別れ際に置いていった前時代的な文化、神仙思想の小道具「不死の薬」を天皇は飲まず富士の頂で燃やしケムリとしたように、当時の大和から来た新しい文化が伊勢にあった古くからの因習文化を拒否せずとも、その体内に取り込んで習合していったようすを具体的に表しているのではないだろうか。大和の神として本格的にアマテラスを神宮に奉ったのも、竹取物語に登場した天皇のモデルも、天武天皇と考えられるのである。
引用・参考文献
・井上章一「伊勢神宮・魅惑の日本建築」講談社、2009年
・岡田精司「古代王権の祭祀と神話」塙書房、1970年
・川添登「伊勢神宮・森と平和の神殿」筑摩書房、2007年
・松前健「日本の神々」中央公論社、1974年
・丸山茂「心御柱ノート」跡見学園短期大学紀要 31, 47-60, 1994
・山田雄司「怨霊・怪異・伊勢神宮」思文閣出版、2014年
・保立道久「かぐや姫と王権神話」洋泉社、2010年
・同「物語の中世」東京大学出版会、1998年
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