19 富士とかぐや姫

 かぐや姫の物語は、古代の富士山を象徴する物語だという。

 物語の最後の部分である。月に帰る間際、御門と心通じていたかぐや姫は取次ぎの中将に、御門に渡して欲しいと不死の薬と手紙を持たせる。その薬と文をもらった御門は、とても悲しみ大臣らに言う。

「いづれの山か天に近き」と問はせ給ふに、ある人奏す、「駿河の国にある山なむ、この都も近く、天も近く侍る」と奏す。これを聞かせ給ひて、
 あふことも 涙にうかぶわが身には 死なぬ薬も何にかはせむ
 かのたてまつる不死の薬の文、壺具して、御使に賜はす。勅使には調磐嵩(つきのいはさか)と云う人を召して、駿河の国にあなる山の頂に持てつくべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべき様、教えさせ給ふ。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、士(つわもの)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「富士の山」とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へたち上るとぞ、云ひ伝へたる。

 このエンディングは、御門がかぐや姫との別れをなげき悲しむことと合わせて、富士山の名前の由来が語られる名場面である。不死(ふし)の薬を燃やしたことを聞いた士(つわもの・武士)がたくさんその山に登ったので、「富士」と呼ぶようになったという由来を話立てしている。

 平安初期に成立したといわれるこの物語で御門のモデルとなったのは、天武天皇だという。天武天皇は、飛鳥から奈良時代への変革期、大化の改新後の政変、壬申の乱を勝ち残り律令制度を整え日本の形を作った、まさに時代を変えた天皇である。またかぐや姫に求婚にやってきた登場人物は、歴史上実在した藤原不比等など天武の側近者たちだともいう。求婚者達が姫に求められた宝を持ってくるくだりは、ときの側近達の政治的茶番を意味している。すでに100年近く前の奈良時代の出来事を、平安時代の作家が風刺を含め書いたのである。(「かぐや姫と王権神話」保立道久)

 天武は天皇家=日本の皇祖神を、火山・自然神=富士神であったタカミムスビからアマテラスに変更した。その事実は、記紀神話、特に神代の世界からの離脱を意味し、自然崇拝の終焉、合理的な政治システムの始まりでもあった。かぐや姫は過去の自然崇拝、火山崇拝の名残を象徴する女神として扱われたのである。

 平安期に書かれたかぐや姫の姿には、すでに火山の女神だった面影はもうない。それでも御門との初見で神隠し的に姿を隠す場面など、前時代的な性格も持ち合わせている。そして奈良時代の代表的な観念である神仙思想の小道具だった不死の薬を持ち出し、御門に差し出すのである。しかし前時代(姫)との別れをかみ締めながらも、天皇は前時代思想を暗示する薬を飲まず、その象徴である富士の頂上で燃やし、過去との決別の決断を下すのである。

 この物語が平安期の人々に読まれた理由は、文学的に優れていたからという理由が一番であったと思われる一方、平安期の人がこの物語の思想背景をよく理解できたからこそ高く評価されたということにも注目して考えたい。律令制度を経て、当時としては合理的な政治を取り入れていたにせよ、未だ平安期の人々も、前時代的な自然思想を心の中に留めており、すでに始まっていた地震旺盛期の中で、そのことが顕在化してくるのである。富士の頂で薬を焼いた煙は、その後も立ち上っていたようなのである。


 蛇足だが、かぐや姫の姿に火山の女神だった面影はないと述べたが、物語には、富士山という山に対する、作者の愛着の気持ちがしっかりと込められている。さりげなく表現されるが、その人間的感性は、現代の作品に向かっている感覚である。

 物語のなかで、かぐや姫を見る翁の気持ちは、こう語られた。

翁、心あしく、苦しきときも、この子をみれば、苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも癒みけり。




参考・引用文献

・保立道久「かぐや姫と王権神話」洋泉社、2010年

・同「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年

・同「物語の中世・神話・説話・民話の歴史学」講談社学術文庫、2013年

・宇治谷孟「全現代語訳 日本書紀」講談社学術文庫、1988年

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