20 明和 斎王と富士の祭神かぐや姫

 後朱雀天皇(1036即位)が神宮の斎宮に出向く8才の長女、良子(ながこ)内親王に贈った物のレプリカである。「餌袋」(えぶくろ)という。もともとは、鷹狩で鷹の餌を入れておく竹で編んだ籠袋のことである。鷹匠の「腰」に着けたのだろう。

 贈り物は斎宮の記録によると、「金菓子の入った銀の透かしのある餌袋」とあり、斎宮歴史博物館では竹の代わりに銅の薄板で編み上げ、銀メッキをして作成したとのことである。実物はそう大きくはなく、展示室の隅に置かれている。籠は、博物館で上映されている斎王群行の再現映画に使われた。

 前回の投稿で、竹取物語のかぐや姫は古代富士山を象徴していると書いたが、かぐや姫はまた、伊勢神宮に仕えた皇女である斎王をモデルとしているともいわれている。斎王は、天皇が代わるごとに未婚の内親王(天皇の娘)もしくは王女から選ばれ、天皇の代理となって伊勢の地で祭祀を行った。

 地上の世界にいる期限の来たかぐや姫は、月の世界、「月の宮」に帰っていく。そして、斎王の赴く先は斎宮であり、「いつきのみや」とも呼ばれた。

 つきのみや → いつきのみや

 竹取物語は、「いつきのみや」(斎宮)に住んでいる、天皇が思ってもかなわない恋の相手だった斎王を、「月の宮」に帰るかぐや姫になぞらえた物語でもあった。

 物語では、かぐや姫の美しさを聞いた天皇の仰せで、御所に上れという使いに対し、かぐや姫は面会もせず、「御門の召して宣給はんこと、畏(かしこ)しとも思はず」と言ったり、「国王の仰せごとを背かば、はや殺し給ひてよかし」と反発する。また、天皇に袖をつかまれると、この国に生まれたものではないからと前置きし、「いと率ておはしましが難くや侍らん」、無理強いしてもあなたの自由にはならないと言うのである。そして、かぐや姫が「きと(急に)影になりぬ」となったのを見て驚いた天皇は、「ただ人にはあらざりけり」と、かぐや姫のただならぬ身分に気づくのである。

 視点を変えてみると、竹取物語という物語は、斎王と同じように、結婚の出来ない高貴な身分の者の物語だと分かるのである。斎王をモデルにしたかぐや姫が、天皇の求婚は賢いとは思わないし、無理を言うなら殺せとまでも言うのも当然である。かぐや姫は、気持ちはどうであれ、皇族奉祀の絶対的な掟として、また同族関係として、御門の求婚には応えられない身分の斎王なのであり、竹取物語は、それでも何とかしたいと考える御門の心の矛盾を描いている。

斎宮では宮殿群を復元中である。数年後には古代「竹の都」が姿を現す。

 斎宮にあった斎宮寮は斎王に仕えた官人だけでも百人以上を要し、斎宮は都と呼んでもおかしくない規模の町だった。大和物語(951)では斎宮を取り上げて、「かの斎宮のおはします所は”たけの宮”となむいひける」と語っている。また、その斎宮のある「多気郡」は、和銅6年(713)まで「竹郡」と書き、「たけのこおり」とも読んだ。その後全国の一字名の郡名を、二字にする政令が出され、「竹」が「多気」となった。当時、竹という植物自体がまだ一般的なものでなく、わざわざ植えて育てられるものだった。郡名どおり、竹郡は竹の産地だった。古代の工芸士だった隼人の竹に関する仕事がこの地からも伝わっている。

 「竹の都」とも呼ばれた斎宮では、斎宮敷地内に今も「竹神社」という式内神社が鎮座するし、そばの地名には「竹川」、斎王が海での禊を行った大淀の浜には「竹佐々夫江神社」(たけささぶえじんじゃ)、その名の由来である笹笛川、前野地区の前野神社は以前の名を猛祭(たけまつり)神社、そして明和町内上村地区には奈良の大和三山のひとつ天香久山の名を持つ「カゴ山」、その近くには天香山神社の論社と考えられる天香山神社(八柱神社)と、竹・かぐや姫に関係する名が次々に存在する。連想的に付け加えるなら、天香久山は、天照大神が隠れた天岩戸伝説で使われた榊を採った場所としても有名であり、神宮とも繋がる。このように、総じて、この地と竹取物語は切り離せないものとなっている。

 そういう意味では、冒頭で紹介した、後朱雀天皇が娘の良子内親王に贈った竹編みの銅籠(かご)は、実際には、斎王からかぐや姫をイメージさせる演出を、斎宮博物館が意図的に行っているのだが、それはそれである程度の根拠に基づいた演出だったといえる。

 かぐや姫という存在は、伊勢と富士とを繋げる役割を持っていたのではないだろうか。古代の都から見れば、それらは同じ東の日の出ずる方角であり、奈良の都人は、富士の天女と、神宮の姫巫女・斎王のイメージを重ね合わせていたと考えられる。そして斎王は都からその文化を運んで伊勢の地にやってきていた。また、伊勢の住人にとっても、斎王は信仰する伊勢神宮に仕える大切な宮巫女であり、多気の名からくる「竹の都」に住む姫に愛着を感じていたに違いない。そして伊勢の人ら自身も、運ばれてきた都文化のひとつである竹取物語を読み、自然界の神である富士の天女と、「いつきの宮」に住む斎王とを重ねて見ていたとも考えられるのである。

 富士浅間信仰とかぐや姫、斎宮にいる斎王、これらが伊勢の人の心の中で、同じ位置にあったと考えてもおかしくない。伊勢の人は斎王を見て、富士を意識していたとも言える。そう考えると、富士に対する伊勢の人の深層心理、思い入れは、思いのほか深いのである。

 明和でも斎宮を取り囲むように浅間さんが存在している。

 前野では、祓川に架かる前野橋のたもとの神木に注連縄をして浅間祭りが行われている。これは水不足、干ばつ災害の神として浅間さんを奉っているようだ。上流の斎宮池をはじめとする溜池群を見れば明らかだ。

 上村の天香久山神社横には大日寺があり、寺の裏に無造作ではあるが、幣が立っており、同じく干ばつ災害を祓っているようである。

 またこれらは台風時の大潮災害が起源だと思われるのだが、先ほど触れた大淀の「竹佐々夫江神社」(たけささぶえじんじゃ)には大日如来像がある。それからこの神社と宮司を同じくする「竹大輿杼神社」(たけおおよどじんじゃ)には、富士登拝から持ち帰った「せんげん石」が置かれている。大淀地区は台風などの豪雨の度に、現在でも浸水の被害が絶えない。

 竹大輿杼神社では、毎年夏に、京都御霊会が起源の祇園祭が開催されているが、その一ヶ月前と決められた日程で、浅間祭りが行われていた。祇園祭で山車を引く役を得た青年が、白装束と鳥帽子を被り、「せんげん石」を参拝し、御神札と竹幣をかかげ、ほら貝を響かせて祇園祭の山車道中と同じ道筋を通り大淀港へ行く。大淀の港からは、稀の好日であれば未明に富士のシルエットが望める。そこで船に乗り込み、代表者が海に入り垢離を取り、御神札を沖に流した。この祭りが終わると、祇園祭りのお囃子の練習が始まったという。

 現在は、大淀港にある大海神社前の海中には、富士浅間を奉る竹幣が、一本だけであるが、風雨に関わらず大切に掲げられている(写真)。 

 ちなみに浅間さんの幣は、最大の南伊勢町方座浦のものから、ほぼすべてが竹である。

 斎王の良子内親王は、7年後斎宮を去るときに大淀の唄を詠んだ。(貝合せ)

    いかにせむ

    今日大淀の濱にきて

    あやめやひかむ

    かひやひろはむ


参考・引用文献

・上井久義「日本古代の親族と祭祀」人文書院、1988年

・保立道久「かぐや姫と王権神話」洋泉社、2010年

・田村円澄「伊勢神宮の成立」吉川弘文堂、1996年

・沖浦和光「竹の民俗誌」岩波新書、1991年

・「明和町風致維持向上計画」多気郡明和町、2008年

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