18 古墳の浅間さん。船越、宿浦、礫浦

 弥生期の環濠集落で有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、主要遺構が、火山である雲仙に対して直線に配置されている。また、雄略天皇の銘と思われる文字の入った鉄剣出土で有名な埼玉県の稲荷山古墳群(5世紀後半)では、11基の内、円墳を除く8基が後円部の頂上から富士山頂をまっすぐに見通すことができる。

 もうひとつ面白いのは、稲荷山古墳のある埼玉県とその周辺県、栃木・群馬・茨城・千葉にはおよそ27個もの浅間山古墳が存在することである。以前紹介した江戸(東京)の富士塚にも古墳を基礎にしたものがあり、それらを含めると30を越える浅間山古墳が存在していることになる。そして、それらのいくつかは、富士山の方角を向いており、古墳の上、もしくは古墳を改変した位置に祠を構えている。

 度々取り上げるが船越の浅間山である。結論を先にすると、よく墳墓形状が残っていることが注目される。写真をよく見ると、祠の役割りとして如来像を風雨や倒木などから保護する四角箱形の石積みから、手前に向けて伸びる石積みがあるのが分かる。これは半球を鉢伏せにした墳丘の形を残すために作られた石積みに他ならない。

 写真では分かりづらいが、石積みの向こうは土が盛ってあり緩やかに下降している。この祠は、当初半球を伏せた状況に土を盛られた古墳が存在し、その後、その半球を半分まで取り崩し製作されたものである。つまりこの浅間さんは、元は古墳を原形にしたことが分かる貴重な浅間さんなのである。

 宿浦の浅間さんである。写真は祠の裏側からのものなのだが、明らかに古墳の形を残そうとしている。もともと祠の基本となる四方形の後ろ側が墳墓形の土積みであったので、それが経年崩壊していくのを防ぐためコンクリート形成を行ったと思われる。宿浦の浅間さんを守られている方々は、この祠が古墳を利用したものであることを認知されている。

 この浅間さんの祠は、今ではコンクリート小屋の中に納まってしまって、その外観は無味なものになっているが、見方を変えれば非常に大切に扱われているということである。信仰形跡のないまま放置され、このまま無縁状態で朽ち果てていくことが予想される多数の浅間さんに比べれば余程恵まれている。この宿浦の浅間さんが、五ヶ所湾入り口の門番的な場所にある浅間山頂上にあり、少し歩いた展望台からの景色は絶景であり、外洋の様子をつぶさに捉えることの出来る位置的重要性は高い。そういう意味で、信仰的な位置付けも高かったと推測され、今でも大切に保護されている理由も分かる気がする。小屋に入ると浅間さんは、ややエキゾチックな雰囲気である。祠に対面する方角は、伊豆諸島火山帯の神津島の方角である。

関西大学文学部考古学研究室編

「紀伊半島の文化史的研究」(考古学編)p184/Fig80図より

 この図は礫浦(さざらうら)の浅間さんである。礫浦の浅間さんは、実際の学術的調査を行った古墳の上に存在している。「紀伊半島の文化史的研究」(考古学編)の「浅間山古墳の調査」報告によると、「・・現在墳頂は直径9.1m前後の平坦面をなしているが、これは墳頂部に鎮座する浅間社の建立による削平に起因しよう。・・(中略)・・墳形を前方後円墳と考え、その墳丘の復元を(紙上で)試みると、墳丘の主軸は磁北から35℃東に振れ、後円部の直径18.0m、高さ約2.4mを測る」とある。

 報告は浅間山古墳の構築過程にも触れ、「もともと北東から南西へ向って緩傾斜していた山頂部に、地山を削り出して墳丘を形成し、周囲に盾形の平坦面を作る。前方部は、破壊された前端部での断面観察による限り盛土は認められないため、地山の成形だけで構築されたものと見られる。後円部は、前方部よりも現状で約1.0m程高く、成形した地山の上に盛土を行っているものと考えられる」、としている。

 また、浅間さんの如来像台座の南西部に大きな石が露出していて、それが石室の天上部だろうと報告は推定している。つまり、この礫浦の浅間さんは大王船越や宿浦の浅間さんのように、古墳を取り崩したり変形させたりして古墳主体部を使うことをせず、その古墳の上に塚を置いて成立していることになる。

 復元図中央の小さな四角形が浅間さんである。両側に立つ灯篭も表現されている。図面下部に向って石段、そして右へ通路が描かれている。浅間さんの向く方向も、ほぼ古墳の前方部の向く方向と同軸と考えて良いようである。報告にある磁北35℃の方角は、北アルプスの火山である立山周辺を指すことになる。


参考・引用文献

・関西大学文学部考古学研究室編「紀伊半島の文化史的研究」(考古学編)清文堂出版、1992年

・保立道久「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年

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