17 大王町船越

 以前の記事で大王の船越からは富士は見えないと書いたが、間違っていたようである。今回もう一度船越の浅間山に登ると、木立の向こうに海が光っている。目を凝らすと、夜明けに見るはずの富士のシルエットが見える。さらによく見てみると、それは海上に浮かぶ三島山のシルエットだった。

 日の出の時には太陽の門のように見えた三島山は、見る位置が違うと色々な形に見えるようだ。浅間山からは三つの峰の頂上として描かれた富士のように見える。これでこの島が島なのに「三頭山」とも記述され、「さんとうさん」と呼ばれることにも合点がいった。

 志摩東岸に面した浅間さんでは、特に富士を見ることが意識されていたような気がする。少し内陸に入ったり、南伊勢の方へ移動するだけで富士を見る前提が崩れてしまう。そもそも富士は天候がよほど良くないと見えない上に、海に面してないと展望の準備すら始まらないのである。麦崎の浅間さんなどは、大洋に最も突き出した岬の先端に祠を置いている。そこまで南に下れば、富士を見るのに大王岬が邪魔にならないからである。ここ船越では、大きく太平洋の海に面しているに関わらず、大王岬が邪魔をして富士を見ることができなかった。船越の富士講信者らは、悔しがったに違いない。そんなときに、目に入った「三つ峰」富士の先端は、どれだけ船越の信者らを励ましたか知れない。

聖徳太子絵伝(トリミング)/画像:東京国立博物館

 実在したかどうかの真偽とは別に、日本書紀で英雄的に描かれた奈良時代の摂政、聖徳太子への尊敬は、その死後太子信仰となって伝承された。その太子の生涯を描いたのが、聖徳太子絵伝である。写真は太子が甲斐国から黒駒を献上され、それに乗って富士に登り、信濃・三越を巡って三日で戻ったというエピソードを描いた部分である。絵伝は平安末期から鎌倉期にかけていくつか書かれた。この絵からその当時の人々は、富士に鋭角なイメージを持っていたことが分かる。またその頂上を三つに分かれた峰、三峰に描くことが特徴的だった。

 拓殖大学教授で富士山研究者の竹内靱負氏の富士図の分類によると、このシルエットは急斜面櫛型の分類に入り、その頂上部形を、「三峰コード」と呼んでいる。主に平安期から鎌倉期に描かれた富士の形で、紛れもない富士山の肖像図である。船越の浅間さんは、海に浮かぶ三島山を眺めて、いつ見えるか分からない富士ではなく、いつも見え、しかも当時の人が心像として描いた典型的イメージの富士を手に入れていたのである。三島山が富士に見えたのは、浅間山の位置からだけだった。

 見る位置を変えて日の出を見る。三島山は、まったく別の景色となる。けれど、船越の海上に浮かぶ三島山から昇る日の出と、大王崎灯台も感動ものである。岩の間から昇る日輪は、季節を測る基準ともなりそうである。


参考文献

・竹内靱負「富士山の精神史-なぜ富士山を三峰に描くのか」青山社、1998年

・同「日本人は、なぜ富士山が好きか」祥伝社、2012年

・東京国立博物館「聖徳太子絵伝」パブリックアーガイブ http://www.tnm.jp/

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