16 国府、志島、地鎮祭

 数キロに渡る国府の白い砂浜は、志摩人の自慢でもある。三重県の白い砂浜では御座の白浜が有名だが、浜としての質・規模ともこちらが上だろう。観光的ではないが。

 一方、平地が続き高台の少ない土地柄であるので、津波の被害も甚大だった。隣接した甲賀地区の妙音寺にある「地震津波遺戒」碑は、安政元年(1854)の大津波の様子を伝えている。

「・・大地震起レリ是レゾ未曾有ノ激震・・・海潮ハ遥沖イキ巳カタマデ退干セシガ直ニ反シ数十丈ノ高浪拾雲ノ如ク起リ・・・其の流失ニ属セシハ實ニ戸数百四十一家屋四百十一船舶・・」

等、低い土地への津波の被害は内陸深くにまで達し、被害は非常に大きかった。

 国府周辺の大日如来・浅間さんは、国府甲賀大日堂、国府国分寺、甲賀の見宗寺など転々としている。富士を眺めるには遮るものがなかった国府の国府神社には、コノハナサクヤヒメも奉られていている。平地が続き高台が少ないこの場所は、津波が来るたびに浅間さんの祠・大日如来も流されてしまったのだろう。

 それでも流されるたびに浅間さんは再び奉られ、亡くなった者の霊を弔い、みたび津波被害が起きないことが富士浅間の神に祈願された。

志島の浅間祭り。浅間さん調査の第一人者江崎満氏からの写真提供。

 国府白浜の南にある志島の海蔵寺薬師堂を拠点にする浅間祭りでは、高台にある志島の村を降り、広岡の浜に出て儀式を行う。広岡の浜は”神の浜”とも呼ばれている。

 祭りでは、浜の砂で富士を作り幣を掲げている。富士を目にする機会が限られるこの地の信者は、砂山を富士に見立て信仰の対象としているのである。

 だがよく見てみると、その儀式は、現在でも一般に、建物工事の前に行っている土地の地鎮祭をやっているように見える。その砂山を祀る作法は、ほとんど地鎮祭のままである。土地を鎮める神事は、日本書紀に持統天皇の691年、「新益京(しんやくのみやこ)(藤原京)を鎮め祭らしむ」とある。実際に2007年には藤原京の跡から、中国式に貨幣と六角柱の水晶が壺に入って埋められていたものが発掘されている。さらには、その周囲に四本の柱を立てて地鎮祭を行った様子も確認されている。発掘では分からなかったが、砂が盛られていたのではないのだろうか。地鎮祭は古墳時代中期には成立し、生活に溶け込んだため統一することができなかったともいわれている。

 実際に、この志島の浅間祭りが伝えている意味というのは、度重なる津波の被害を受けながらも、この地に住んだ人々の、地震・津波除けの願いが込められていると思われる。円錐状の砂山は、大自然の神であった富士であり、地鎮の砂山でもあった。そして、柱・御幣を立て、要石の如く富士の地中にいる龍に突き立てることで地震を鎮め、津波がやってこないように祈念する儀式を行っているのである。

 こうしてみると、この志島の浅間さんの儀式は、現在行われている地鎮祭の原形のひとつだと考えられ、過去には富士を中心とした災害鎮守信仰が存在したことをうかがわせ、その儀式の一部が現在まで受け継がれているのではないのだろうか。


参考文献・引用

・新田康二「いのちの碑・三重県100基」、2014年

・益田勝実「火山列島の思想」筑摩書房、1983年

・江崎満「伊勢志摩の富士信仰を訪ねて」鳥羽郷土史会、2014年

・宇治谷孟「日本書紀 全現代文訳」講談社学術文庫、1988年

・公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター「地鎮の起源と都の地鎮」

・朝日新聞「富本銭と水晶で地鎮祈願 藤原宮跡で最古銭出土」2007年11月

0コメント

  • 1000 / 1000