15 沖縄・御嶽(ウタギ)

 沖縄県の御嶽(ウタギ)である。ウィキペディアは、主に鳥越憲三郎氏の「琉球宗教史の研究」などから引用して御嶽のことを説明している。

「琉球の村落には必ず御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖林があり、そこには村人の保護者であり支配者である神が住み給っている」

 中津浜浦の浅間さんである。浅間さんの祠も伊勢志摩・南伊勢の浦々には必ずあり、聖林に囲まれて村人を津波から守護している。御嶽に非常に類似している。

 海の道、海洋文化という観点からみれば、沖縄と熊野灘は近い。事実、熊野那智勝浦の補陀落渡海と呼ばれる渡舟修行では、日秀上人(1503-1577)が沖縄に流れ着き、その後その地で布教活動さえ行っている(上人の活動で埋経については後々触れたい)。

 呼び名についても、御嶽(ウタギ)以外にも、以前は他の呼び方が各地方にあったといい、御嶽とは本州地域で火山などを指していた言葉で、現在も御嶽山にその名前は残り、特に修験者が「御嶽」を「ミタケ」などと使っていたことから考えて、修験道の影響が「御嶽」(ウタギ)に来ていると思われる。

ウタギを中心に行われる「いしゃなぎら結願祭」

 御嶽を中心に、祭りも行われている。これは、いしゃなぎら(石垣島)結願祭と呼ばれ、石垣島宮島地区にある御嶽の祭りである。ここの祭りは不定期に行われていて、最近では2014年、2008年に行われている。「旗頭」と呼ばれる長い竹ざおは、浅間さんの幣を連想するし、地鎮(ジイビス)は農作業の地固めとの説明があるが、古和浦の地叩きそっくりである。「地鎮(ジイビス)」という呼び方は、いよいよこの信仰も地震津波由来であるということを裏付けているようである。

 以前触れたように沖縄にも、魚が伝える地震津波の神話が残っている。昔、珍しいヨナタマという魚を釣り上げ翌日食べようと外に干していた時である、はるか海の方から「ヨナタマよ~、ヨナタマよ~、何故今まで帰らないのか、早く帰りなさい」と言う声が聞こえてきた。すると側からから子供が泣くような声がして「私は今、炭火の上に乗せられて焼き殺されようとしています。早く津波を送って助けてくれ」と答えているのが聞こえたので、子供と伊良部島に逃げ、その後村を津波が襲い村は壊滅したとされる。地震津波の災害文化における、東南アジアに広がる伝承の一部であると考えられている。

 いしゃなぎら結願祭の守護神を勤めるのは弥勒「ミルク」である。ミルクとは沖縄らしくて、可愛い名である。もちろん弥勒菩薩(みろくぼさつ)なのだが、仏教伝播の複雑さを考えれば、沖縄に祆教(けんきょう・ゾロアスター教)風の太陽神が伝わっていると考えてもおかしくない。江戸期の富士塚で紹介した富士講も、弥勒の浄土実現を願い、それを庶民に広めた。創主の食行身禄(じきぎょうみろく)は、富士信仰の道を布教し、「ミロクの世」を願って入定したといわれている。

 石垣島結願祭のミルクは稚児を伴わせて、人々を引き連れ村を練り歩き、最後に村の者全員を御嶽に導く。どこの村の御嶽も、高台に作られている。

 ちなみに、沖縄地方は明和8年(1771)3月10日の八重山大地震による明和の大津波で、壊滅的な被害を受けている。石垣も中心部は98%の人口を失ったといわれ、その後移住によって村の復興を行っているが、復興はその地の御嶽を中心に進められた。



引用参考文献

"Utaki" by Original uploader was Turlington at en.wikipedia - Transferred from en.wikipedia; Transfer was stated to be made by User:nopira.. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ - https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Utaki.JPG#/media/File:Utaki.JPG

・ウィキペディア「御嶽」「琉球神道」

・鳥越憲三郎「琉球宗教史の研究」角川書店、1965年

・「海と列島文化」小学館編

・五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2004年

・田村園澄「仏教伝来と古代日本」講談社学術文庫、1986年

・お祭り日本の旅HP「いしゃなぎら結願祭」

・jaiman024「YouTube/いしゃなぎら結願祭」

・琉球大学中村衛研究室HP「八重山大津波」

・今帰仁村歴史文化センターHP

・立川武蔵「旅する弥勒十選」日本経済新聞、2015.8.14文化面



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