64 能「桜川」と中央構造線

#64

川面に浮かぶ桜の花びらを網ですくう物狂いの母(大槻文蔵) 


 能の題材である謡曲「桜川」。桜のこの時期はあちこちの能舞台で演じられる。

 トラノオサクラにちなんでいるという松阪虎尾浅間。外宮と内宮を繋ぐ古市にあった浅間さんの桜木神社。桜というのは浅間神社の神木であり、虎尾浅間の桜は本宮浅間大社の桜を植えたものだともいわれる。また浅間神社の神木が桜というのは、信仰の山富士山の祭神である「木花咲耶姫」(コノハナサクヤヒメ)の 字面からというような曖昧な説明も聞くが本当はどうなのだろうか。

 そうやって、富士と桜にまつわる文化をみていて出会うのが、この室町期に世阿弥によって書かれた謡曲「桜川」である。物語は人商人に買われた子と母の再会物語で、前後半で、西国から東国へと大きな展開を見せる。前半では、買われていった子の書置を母が読む姿が語られ、後半では、時が経ち遠路離れた常陸(茨城)で母と子が再開する。再会の場である桜川が遠国の桜の名所だったという以外、出発地の筑紫日向と終着地の常陸についての説明はないが、そこには何かしらの意図を感じることができる。


物狂い母の軌跡は中央構造線に沿っているようである(GoogleMaps


 「桜川」の場面は、西国から東国へ、桜の開花の前線が列島を移動していくように前後半の舞台が移る。桜の時期に扱われる題材ならではの風情ある演出である。そして、主人公である物狂いの母の旅の行程を見ると、筑紫の日向、火の国九州を出発し、常陸国風土記に出る富士の祭神コノハナサクヤヒメと筑波山を登場させながら、常陸の国(茨城県)にたどり着き、それはあたかも中央構造線に沿っているようにも見える。

 実際、物狂い母は、筑紫日向(宮崎県)から箱崎(福岡県)、須磨(兵庫県)、駿河(静岡県)を経て、常陸(茨城県)に至ったと作中で説明している。「駿河の海過ぎて」とも言っているので、箱崎からは行程のすべてを船を使ったようであるが、何よりやはり、出発地を筑紫の日向とし終着地を常陸としているところに、この作品が中央構造線を大きく意識して書かれていることが分かる。

 

桜舞う丹波篠山の春日神社能舞台(国重文)での「桜川」


 「桜川」は仏教説話が基本となっているとの解説を見るが、一番の特徴はその全編を通じて桜がテーマになっていることである。

 人商人が子の書置と身代金を持って母を訪ねたのは ”桜の馬場” であり、

我が故郷の御神をば、木華開耶姫と申して、御神木は桜木にて御入り候

として、母は自分のふるさとの氏神が木花咲耶姫で、ご神木が桜だったことを説明し、その氏子である子供に櫻子と名前をつけたという。そして、無き子へ愛情の高まりが、物語の中心である桜の花びらを川からすくう物狂い舞いへと繋がっていく。しかもその桜の咲き乱れる川の名も桜川である。

 それら桜が扱われる前提となるのは、紀貫之の和歌である。

常よりも 春べになれば桜川 波の花こそ まなくよすらめ

 「桜河」は常陸の歌枕である。「いつもよりも、春になると、常陸国の桜河は水の浪ならぬ花の浪がたえまなく寄せているだろう」という歌は、作中で「紀貫之」と歌人の名を上げて使われる。この歌をヒントに桜川が作られたことは間違いない。世阿弥は、川面に浮く桜の花びらを「波の花」に例えた紀貫之の表現から、その花びらをすくう物狂いを思いついたようであるが、それと同時に、常陸という場所が中央構造線の東端であるということも考えていたのではないだろうか。出発地を、わざわざ筑紫日向にしたのも、そこが中央構造線の西端であることからきている。

 また世阿弥が子の名前を「櫻子」としたのは、万葉集十六巻「桜児伝説」も考慮に入れてのことだろう。「桜児は、桜のような女性の意で、それはホノニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの神婚譚を背景として、おそらく人の生命のはかなさを象徴する名である。」(國學院大學デジタルライブラリー)との指摘も有る。ここでははかなさの表現も大切だが、その神婚譚のニニギギノミコトが地上界に天孫降臨した場所が、筑紫の日向であることも思い出される。記紀神話が火山神話に基づいていることは保立道久氏によって指摘もされている。氏はニニギの天孫降臨こそ火山噴火をイメージしているともいう。世阿弥の作品構想のなかには、火山と連動する地殻変動である中央構造線を意識させる古い時代の火山神話が残されていたのではないのだろうか。

 作品は室町期のもので、作中の木花咲耶姫は九州の神であり、江戸期以降の富士の祭神を木花咲耶姫とした林羅山の影響はないからといって、木花咲耶姫の扱いを単純に子安の神とはしておけない。もっとも、林羅山がそのように判断を下したのも、それまでの時代背景に木花咲耶姫を富士の祭神にする理由は内在していたのかもしれない。木花咲耶姫が、富士を含めた火山神話に大きく関わっていることに間違いはないのである。


浅間文書に元禄期の富士登山の記録が残る竹原五郷にある字中原の浅間竹弊と薄墨桜


 最近では能研究者としての活躍が目立つ梅原猛氏と松岡心平氏は、「能を鎮魂劇」と指摘しているし、「能を通じて古代文化が現代にまで伝わった」ともしている。それは梅原氏の聖徳太子怨霊説を引いて、猿楽の祖秦河勝が太子の家臣だったことによる。世阿弥の「風姿花伝」には秦河勝が怨霊になったと記述がある。秦河勝の始めた猿楽は、聖徳太子の霊を弔っているのであり、死者への鎮魂を目的としているようである。

 これまで本稿では、神宮や伊勢志摩地方の富士信仰などを取り上げて、古い時代に日本人は富士山などの火山や中央構造線を祭祀対象にして、地震や津波などの災害鎮守や被害者の慰霊を行ってきたことを説明してきた。世阿弥作の謡曲「桜川」は、物語の中に列島を貫く中央構造線をイメージさせることで、その当時の災害への鎮魂を伝えているのではないのだろうか。そうしてみると、能舞台に響く足踏みは地中の悪霊を祓っているように聞こえるし、物狂いは死者への大きな悲しみと鎮魂に見えてくるのである。散る桜は、いうまでもなく命のはかなさを表現している。川面に漂う桜の花びらは、行く当てない死者の霊であり、その霊である花びらを「救おう」とするのが物狂いなのである。


 丹波篠山の春日神社能舞台。文久に建てられた国重文の舞台は地元篠山の皆さんの大らかな雰囲気も手伝って、人間国宝大槻氏の醸し出す緊張感が心地良いほどで、素晴らしい能を楽しめました。写真撮影にも親切に対応していただいて、本当にありがとうございました。篠山は出雲から京都に連なる断層の中継地点であり、奈良藤原氏ゆかりの春日大社を勧請した神社や能舞台も、この土地の鎮めになっているのかもと思いながらの鑑賞でした。



引用参考文献

・中野孝次「桜」(日本の名随筆65・桜・竹西寛子編)作品社、1988年

・竹本幹夫「対訳でたのしむ・桜川」檜書店、2010年

・篠山能実行委員会・篠山市「第四十四回篠山春日能パンフレット」、2017年

・工藤重恒「後撰和歌集注釈」福岡教育大学紀要第38号、1989年

・入谷裕子「万葉集巻第十六由縁歌「桜児伝説」の研究」奈良大学大学院研究年報9号、2004年

・保立道久「歴史のなかの大地動乱」岩波新書、2012年

・國學院大學(城﨑陽子)「万葉神事語辞典」大学デジタルミュージアム、2017年

・梅原猛・松岡心平「梅原猛対論集4・神仏のしづめ」角川学芸出版、2008年

・表章校注「世阿弥・申楽談儀」岩波文庫、1960年

・世阿弥・竹本幹夫訳「風姿花伝」岩波文庫、2009年

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