63 大和文化の東方進出と伊勢の富士文化
#63
伊勢から富士を指す線と、大和から真東へ引かれた太陽道(GoogleMaps)
◇前書
見た人を少し当惑させてしまう図かもしれない。三輪山からの太陽道もマニアックなのだが、富士山を伊勢の二見浦から眺める線というのは、むろん天候に左右されるし、空気の汚れであったり、年間を通して富士が見えることがまれで、世間には少し馴染みが薄い。また、まれにしか見れない富士山では観光資源になりにくいので、現在二つの大岩は夫婦岩という名前で売り出している。過去から張られている大しめ縄は、夫婦の繋がりを表現するものとして扱われてしまって、本当は、ふたつの大岩が富士を御神体とする鳥居として扱われる為のものなのに、そのことは忘れられてしまっている。だから、こうして面と向かって富士と伊勢を結ぶ線を見せられても、なかなか腑に落ちない人もいるのだと思う。ちなみに、安政の大地震による津波までは、夫婦岩のさらに600メートル海上に、輿玉石という富士見に目印となる御神体も存在したが、津波によって倒壊している。
埼玉稲荷山古墳のことをNo.61で書いたが、その延長線で古い伊勢の富士信仰についても書いてみた。これまでの記事の概略だけなので、新味には欠けるが、全体像を掴むには及第だろうか。とにかく面倒臭がりな性格で、大雑把で乱暴な文章をお許し願いたい。まず本稿で、伊勢神宮が大和文化以前の自然信仰の祭祀を奇跡的に残す画期的な場所であることと、神宮とその周辺地域が、富士を敬う災害鎮守の場所であることを少しでも理解して頂けたらと思う。浅間さんという、ひとつひとつはささやかではあるが、確固たる信仰の集まりが、伊勢志摩地域の災害鎮守の背景になってきたことを知ってもらうのが筆者の思いなのである。
◇本編
伊勢という場所の由来を考えるとき、古い大和文化の東方進出と、太陽信仰とを重ねて考える場合もある。確かに大和文化の源流と目される纏向の地を見下ろす三輪山からは、真東に太陽の道とよばれる重要な信仰拠点のならぶ直線が引かれ、その直線は伊勢湾入り口、伊良湖水道にある東国への要衝だった神島にたどりつく。やはり大和の東方進出は、その太陽信仰が根底にあるのかもしれない。ただ以前から取り上げているように、その神島の近くにある伊勢神宮・二見浦からは、別の直線、富士見の直線が引かれている。現在は夫婦岩と呼ばれている海から突き出た二つの自然石の大岩であり、江戸時代以前はそれらを立石と呼んで鳥居に見立てて、その間から富士山を遠望していた。しかもその富士見の線は、意図を説明するためか、それとも線の存在を知ら示すためか、わざわざ始点が二等辺三角形で強調されている。夏至という自然界の記念日に、二見浦からその奇跡的な富士を見る経験をしたなら、その場所が富士への強い信仰が伺える場所であることに納得ができるだろう。習慣も考え方も違った二つの文化が、伊勢の地で出合ったのではないか。大和文化の東方進出を考える場合、この二つの直線の交差する伊勢の地を、単純に線の交差する場所としてでなく、太陽を神としていた大和と、富士を神としていた東国、ふたつの文化の衝突した場所としてみると論考は膨らむ。
埼玉稲荷山古墳は、富士山を中心とした火山を強く意識して配置されている(GoogleEarth)
続日本後紀に記される承和七年(840)の伊豆国からの報告は、神津島に鎮座する阿波神が噴火により火山の神殿を創り、その神に階位を与えれば、国は平和になり産業が栄え、与えなければ国は滅ぶだろうといっている。平安の前期でも、火山災害という自然現象は神の力によるものと迷信的に考えられていたようである。そのように考えるなら、東国にある日本最高峰の火山である富士が、その主たる神であると考えられていたとしても不思議ではない。力強く独立するその巨大な山は、現在でも我が国のシンボルである。しかも当時の富士は、その力を誇示するように噴火を繰り返していた。雄略天皇の名前が入った国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が出土した埼玉稲荷山古墳は、富士山を中心に、真北に男体山、真西に乗鞍岳と、三つの火山を祭祀して、その東国文化の影響範囲を示しているようである。またさらに、稲荷山古墳から富士山を指す祭祀軸は、富士南麓にある溶岩流の先端と、列島を横断する糸魚川静岡構造線の末端にも到達して、火山としての富士への意識は相当高かったといえる。鉄剣に記された「辛亥年」は、471年、5世紀後半とされている。
そして、富士を指す二等辺三角形を描き、夏至の日に二見浦の立石を鳥居として、その頂きに日の昇る富士を拝していた伊勢の地も、富士を神とする東国文化の影響を受けていた地だったのだろう。富士見の二等辺三角形は、二見浦の立石を頂点に、朝熊山断層が断崖を降下させ五十鈴川と交わる地点、つまり現在の伊勢神宮内宮と、中央構造線が形成した西方からの山稜の末端である高倉山の麓地点、つまり現在の外宮とで形成されている。今も両宮の正殿の床下で行われる、心御柱という地面を貫いて何者かを押さえつけようとする素朴な儀式から推察してみると、その富士信仰は、地脈、今で言う地震断層を通って地面を揺らす龍を意識していて、主に地震災害の鎮守を目的としていたようである。龍や鯰は人類学的にいえば、地震伝承に関連する「世界魚」という位置付けであり、中世に書かれたという行基図は、要石と記された棒状の剣が、地震を起こす地中の龍を押さえつける古い人々の自然観念を伝えている。
伊勢志摩に集中する富士信仰は200ヶ所を超えつつある(GoogleEarth)
古墳時代から続いていただろう伊勢地域への大和文化の懐柔と圧力の長い歴史、そこには様々なドラマがあったのかもしれない。岡田精司氏が言及したように、懐柔策として大和からの人質には天皇の皇女が差し出され、政治的な圧力としては後に内宮とされる宮を見下ろす場所にプレ金剛證寺が、後に外宮とされる宮を見下ろす場所には高倉山古墳が造営されている。通常、大王たる天皇を奉る場所を見下ろすような場所に、他の信仰施設が作られることはない。それらは、内宮・外宮が、元は伊勢地域独自の信仰の場だったことを裏付けているし、その独自の信仰の、最も大切な神事だった心御柱行事は、床下という屈辱的な場所で行われている。しかもその上に鎮座するのは、天照大御神という大和由来の神なのである。
伊勢の地で一旦大和文化が主導的な立場になると、そこからはことごとく東国文化の象徴だった富士をイメージするものは消され、征服されたその場所は天皇のみが訪れることのできる私幣禁断の地として封印されたのではないのだろうか。あれほど富士見にふさわしい場所に、姫が二度振り返ったと、中世寓話から引用された「二見浦」の地名は、「富士見浦」が自然であるし、わざわざ難しい字を当てられた富士火山の展望台だった「朝熊山」(あさまやま)の表記は、火山と富士山を意味した「浅間山」(あさまやま)だっただろう。二見浦から富士を遠望することは隠しきれなかったが、二等辺三角形はその底辺角が曖昧にされてしまった。現在の伊勢志摩周辺で神宮を取り囲むように、二百ヶ所以上も残る「浅間さん」と呼ぶ富士信仰も、ほとんどは近世のものだが、津波避難所を塚と同一にするものなど、民俗的に災害鎮守の性格をはっきり示すものは、その消された東国の富士文化の名残りだと思われる。
富士が舞台装置の東征武勇伝を、殿上の皇女に見せるのが烏相撲の意図(上賀茂神社)
古い東国の富士文化は、他の場所でもその形跡が見られる。ヤタガラスともいわれ、東征で活躍した賀茂氏を奉る京都の上賀茂神社では、その九月重陽に行う烏相撲の奉納次第をよく見れば、内容は東国での賀茂氏の武勇伝であり、そこにある大きな円錐形をした砂盛りの舞台装置は、まさに富士山で、その武勇伝の舞台が東国であることを説明している。また、源頼朝が行った富士の巻狩りが、「日本の統治者としての資格を神に問う古の盛儀」と位置付けられ、またそれに習った足利将軍、織田信長、徳川将軍などが富士遥拝を行ったことは、東国武士の意識に、富士と王権とを繋げる古い伝統が残っていたことの証である。
大和の中央部で編纂された天皇を中心とした歴史書である記紀(720)に、「富士山」を直接扱う部分が見当たらないのは、井野辺茂雄氏などの先人の指摘するところである。ヤマトタケルが、駿河や相模など、直ぐ側を通っていても、頑として「富士山」は登場しない。万葉集においては、おおよそ全四千五百首の中で、山部赤人ら大和由来の作者らの長歌に「富士」は登場するが、他に「富士」が現れるのは、東歌の或本(別資料)による扱いの一首と、防人歌のもう一首である。国文学者の近藤信義氏は、「東海道を利用する他国の防人たちも富士山は必ず視界に入っていたはずであるが、旅中の景としては詠まれていない」と当惑する。古代の東国の富士文化は、卜占や不老長寿など呪術的で、大和文化から見れば嫌悪感を覚えるほど前時代的だったのかもしれない。
富士市内、東海道が潤井川を渡る付近から富士を望む
富士が公式文書に再び現れるには、持統期の政治家藤原不比等の四人の息子らが、同時期に天然痘で死去(737)するのを待たなければならかったのか。実際に六国史に「富士山」が現れるのは、延暦十六年(797)に成立した「続日本紀」が、富士の噴火による降灰を報告してからである。その70年以上の間、東国由来の富士文化の形跡は、被征服民の文化として封印されていた。いま我々の見る伊勢の地の文化は、富士文化を含めそのほとんどが、その後ゼロからスタートしたものだろう。「富士」の封印が解かれたのに合わせて、平安初期に成立した竹取物語は、その半世紀以上も前の天武持統朝の政治を振り返っている。東国の首長に貢物などをしていたのだろうか、当時の取巻き政治家の道化ぶりを揶揄し、「不老長寿」など神仙思想からくる呪術的な観念の文化、つまり東国の文化を意味した薬壺を、富士の頂きで惜しみながらも焼き捨てる決断をした御門の政治を回顧している。東国の富士文化との衝突は、それほどインパクトのあるものだったのである。東国文化を消し去った征服地である伊勢神宮に、天皇が初めて行幸するのは、1000年以上後、明治政府の主導下で新たな国粋主義の舞台として神宮を再利用するために訪れた、明治五年(1872)になってからである。
だが、大和文化の東征に血生臭さを感じないのはどうしてだろう。やはり記紀ならではの情報操作のなせるところだろうか。それは恐らく征服相手だった東国文化が、いや古い日本の文化自体が、逆に非常に血生臭い文化だったからかもしれない。幕末に日本を訪れた外国人は、日本人を非常に親切で礼儀正しいとした一方で、切腹を信じられないくらい野蛮な行為であるとも評価した。古い諏訪大社の御柱祭では、70頭もの鹿の生首が捧げられていたとも伝わる。現在でも御柱祭で柱から落下して死亡する者は無くならないが、昔の祭にはそれを是とする雰囲気すらあったという。恐らくそれらの因習は古代から綿々と引きずってきたものであり、大和の文化がやってくるまで、日本という国は恐ろしく野蛮な国だったのではないだろうか。その血生臭さを消す作業のために、神宮を始めとする神社では、仏教から取り入れられた潔斎観念がより強く求められ、実際その結果、日本人は非常に親切で礼儀正しくなった。
斎王は、伊勢に赴く前に大内裏で一年の間斎戒生活を送り、さらに特別に作られた野宮(ののみや)という場所で一年潔斎生活を送らなければならなかった。全国で行われる各種神事で、禊が繰り返し行われるのは周知のところである。一度も魚介などの食材に手を触れずに調理を行う神道の御贄神事などは血を忌み嫌っているのであり、家族に不幸のあった者が神事に参加できないのは、現在でも当たり前である。神宮に職のあったものは、近親者の葬儀にも参列できなかったし、伊勢には、明治まで「速懸」(はやがけ)という風習があった。人が息を引き取るのは通常自邸だったが、死による家屋内の穢を良しとしない観念は、死を「病気大切に及んだ」とし、親族らは礼服などの装いもせず死体を一旦墓地まで運んで、故人がそこで息を引き取ったことにした。この風習は神宮の神馬にまで及んだという。「神都に死はなかった」とまで言われた。つい最近まで非常に強く求められた神宮などでの潔斎観念は、裏を返せば我々の祖先が持っていた非道徳な野蛮性を正すためのものだった。余談だが、日本は島国だからお互いを尊重し合うという説明を耳にする事があるが、それなら世界中の島国がそうなるはずだが、残念ながらそうではない。日本人の性格は、環境によるものではなく、大和文化が、積極的に仏教を中心とした宗教政策を取ったからにほかならない。
諏訪大社の四つの宮と、蓼科山、北横岳は二等辺三角形で火山祭祀を行う(GoogleEarth)
それでは、大和文化はどのようにして東国へ進出していったのだろうか。記紀に見るヤマトタケルの出動は、既に大和の勢力が東にその範囲を広げた後のことだろう。その進路も大まかにつかめるが、いまひとつ現実味を感じない。以前関東地方は、日本で最も稲作導入の遅れた地域だったことを述べた。畿内から尾張に入った稲作の伝播は、何らかの要因でそこに留まり、再び移動し始めたのは北陸方向で、そのまま日本海側を北上して東北に至っている。同位体測定で測る関東への稲作導入は紀元前100年というが、これは東北からの南下で、政治的な要因ではなさそうである。では大和文化の東征を、災害という面からも見てみるとどうだろうか。東国の文化である富士信仰は災害鎮守の信仰だったとも書いたが、東国は長い期間、富士や周辺火山の噴火災害や洪水災害などに悩んでいた可能性がある。また西暦0年前後は、気候変動により平均気温が下がって、東北の人口が南下したとも言われている。
関東平野中心部の中央構造線上で富士を祭祀した埼玉稲荷山古墳の周囲は、利根川の運んだ砂が形成した沖積低地で、低地開発を得意とし、S字状台付瓷を使った尾張出身者によってその蛇行による洪水など、災害を克服して稲作開発がなされた。その政治的な導入と思われる稲作の開発は、四世紀のことである。「日本のポンペイ」と呼ばれる、群馬県渋川市の黒井峯遺跡に隣接する前橋市の元総社北川遺跡では、再三火山泥流の被害を受けながらも稲作に果敢に挑んだ形跡が見られる。黒井峯遺跡からは何ヶ所も火山鎮火の祭祀を目的とした土器や玉が見つかっているし、直ぐ側の金井東裏遺跡から、大和の鎧を着けた武人が、田園地域の中央に設けられた屋敷で、榛名山の噴火災害の鎮火を祭祀しながらの姿で出土したのは、五世紀後半のことである。
稲作が伝わるまで東国の人々は、富士などの火山がもたらす良い面、恵まれた水や森林、その水は駿河湾など海にまで好循環をもたらし、素晴らしい環境の中を、狩猟採集で食料を調達していた。東国を一括りにするには無理があるが、東国では遅くまで、狩猟採集で食料を調達するグループと、稲作グループが、併存していたと思われる。狩猟採集の食料調達はその場所の自然環境に大きく依存している。つまり食料を調達していた地域が一旦災害などで環境が変わってしまうと、その場所での食料調達は非常に困難になり、その環境が復元されるには数十年、数百年単位の時間が必要になる。環境の変わった採取地域からの移動は、まず十分な食料の確保が前提となる上、他のグループとの争いも覚悟しなければならなかった。災害は、規模にもよるが、狩猟採取を基盤とした社会に重大な影響を与えた。自然環境の破壊を非常に恐れた東国の人々が、災害鎮守の神を奉じたのは必然である。信州の諏訪湖畔で八ヶ岳火山群の恩恵を受け生活を営んでいた人々が、諏訪大社の四つの宮で活火山だった蓼科山と横岳とを鎮火祭祀していたことも納得が出来る。
皇大神宮横の御稲御倉
恐らく数百年、非常に長い年月を伴ったが、大和の文化は、災害に見舞われ食料難に直面した東国に、支援という形で進出していったのではないだろうか。進出していった地域に対して、その災害からの復興支援を通じて、食料調達のすべ、ここでは稲作を伴う定住型の農耕を指すが、それらを指導援助することによって、その地域への支配を拡大していったと考える。
実際のところは、そこで収穫された米のほとんどは、税として、官社制度の中、米の集積地の役割を与えられていた各地の神社に集められのだが。時代を経て、東国から運ばれた米の回収拠点だった神宮には、既に高床式神明造の倉庫が並び、その権利を手にした天武持統朝にとって、それらは隠しておきたい新しい独自の収入源でもあったのだろう、私幣禁断でその場所の秘密が保たれるべき理由は十分にあったのである。
その後大和の文化は、東国文化が埼玉稲荷山古墳を起点に祭祀していた富士山麓の山宮や、湧玉池、駿府の賤機山に、浅間神社を置いている。山宮と湧玉池は富士からの溶岩流の先端にあり、その進行を食い止める為の祭祀地だった。大和の文化は、富士山の噴火という自然現象までは征服出来ず、それらの場所は再び富士火山の鎮火を目的として奉られたのである。
中世になると湧玉池の浅間神社は、富士山本宮浅間大社として、平安末期に末代上人が興した富士の登山信仰と合流した。またその登山信仰は、山岳信仰として修験道と交わり、多様な変化を見せる。伊勢志摩周辺でその信仰の影響が見えるのは、今のところ中世末頃からである。伊勢志摩での富士の登山信仰も、以前東国文化の影響下で富士を奉っていた「浅間さん」の場所が再び使われた。今もいくつか残る古墳を利用する浅間さんの塚は、その形跡だと思われ、祭などの風俗には、他地方の富士信仰には見られない特徴が見え隠れする。
古和浦の浅間祭では地震鯰だろうヒゲを書いた子供たちが笹束を地面に打ち付ける
夏至の前後、伊勢の二見浦から遠望する富士の頂上から日が昇る期間、各所で行われる浅間祭りは、現代でも独特である。松坂の堀坂山では、山頂に大松明が焚かれ、周辺三郷の人々が根付きの竹を持ち寄るが、これは地鎮めを意図したものだろう。南伊勢の古和浦では、元は御幣を束ねたものだろうか、竹に傘状の美しい梵天を付け、子供らがそれらを持って浦を練り歩く。そして、またこれも地鎮めを意識しているだろう、笹竹を束ねたものを顔にヒゲを書いた子供らが、浅間歌に合わせて地面に叩きつける。ヒゲは地震鯰のイメージたろうか。祭りの終盤ではその子供たちを、山の上で現代の津波避難所と同居する「浅間さん」にまで、意図的に走って登らせる。これは実に、津波の避難訓練である。直ぐ隣の方座浦では、今だ百人以上の参加者を集め勇壮な祭りが行われる。そこでは、抱えるほどの太い竹弊を、直立させたまま浅間山へ運ぶが、これもまた、京都祇園祭りの鉾や、神宮の心御柱と同様に、地中にいる龍への鎮めのまじないなのである。
伊勢志摩の住民にとって、東国文化だろうと大和文化だろうと、富士を尊ぶことに変わりはなかっただろう。むしろ彼らには富士を遠望する習慣が、元から備わっていた。およそ百五十年ごとにやって来る南海トラフ地震とその津波にさらされていた人々は、火山の長である富士に、死者への鎮魂と、災害鎮守を願っていた。それは、極めて政治的な事情とは無縁の、古からの習慣だった。前夜に星が良く見えた夜明け前、猟のために海に出る。東の空が薄明るくなる頃、そのシルエットは200キロ以上も離れていたが、はっきりと見えていた。
引用参考文献 (追加参照文献)
・木村淳也「富士をめぐる王権のまなざし」明治大学文学研究論集第20号、2004年
・古田武彦「古代史を疑う」ミネルヴァ書房、2011年
・近藤信義「東歌・防人歌」笠間書院、2012年
・松島仁「富士山と徳川将軍」雑誌 聚美18号、聚美社、2016年
・西山克「道者と地下人・中世末期の伊勢」 吉川弘文館 、1987年
・平川南「日本の歴史・日本の現像」小学館、2008年
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