62 伊勢富士参詣曼荼羅 虎尾浅間神社

#62

資料1 虎尾浅間神社「松坂権興雑集絵図」宝歴二年(1752) 桜と松が目印


 虎尾桜の枝振りは、虎が横たわる姿に似ているという。「虎尾浅間神社」、通称「虎尾浅間」の名は、境内に虎之尾桜が枝を伸ばしたことから来ている。江戸時代中頃の地誌である松阪権興雑集にも、付属する絵図に桜の様子が描かれている。その桜は富士山本宮浅間大社のものを持ってきたともあるが、本宮大社の桜といえば武田信玄寄進の枝垂れ桜やソメイヨシノが有名である。権興雑集が述べているように、実際に虎之尾桜(エドヒガン)を大社から持ってきたのかには疑問のあるところである。だがそれでも、富士の祭神「木花咲耶姫」(コノハナサクヤヒメ)の字面から連想されたのか、全国の浅間神社の神木は桜とされていて、この松坂城下の浅間信仰の中心地だった浅間神社でも、虎尾桜はその場所にふさわしい景観だったに違いない。

 虎尾浅間のあった寺町地域には大小様々な寺が並んだが、虎尾浅間の東(絵図では右)にあった来迎寺は、地元の豪商三井越後屋が支援し、現在もその本堂は国の重文となっている由緒ある天台寺院である。城下にある寺の中では、その境内はかなり広い方だった。図にある朱色の建物からは虎尾浅間の社はとても小さく見えるが、その来迎寺と並ぶ広さの浅間の森の敷地全体は、およそ三百六十坪もあったとされている。三国地誌(1761)では、松坂四社の内の一つに数えられ、広い境内には他に天御中神社、神明社、琴平神社、蛭子神社、若宮八幡神社、稲荷神社、猿田彦神社の七つの勧請社が鎮座していたが、それらは虎尾浅間と一緒に明治四一年、日野町の八雲神社に合祀され、現在は本殿横に奉られている。

 前々回のNo.60から松坂の町全体を、富士登拝の様子を描いた富士山本宮浅間大社所蔵「富士参詣曼荼羅図」に見立てて、「伊勢富士参詣曼荼羅」と副題を付け、古い城下町である松坂の富士信仰の痕跡を追っている。伊勢富士とは、松坂市街地西側に聳える鎮守山、堀坂山(ほっさかさん)である。前回は松坂の港地域にある大口浦の浅間行事を紹介したが、今回はその大口浦に注いだ愛宕川を逆上って松坂城下に入り、松阪市中やその周辺の富士講から崇敬を集めていた虎尾浅間神社を取り上げてみる。


写真1 現在の虎尾浅間「富士浅間大明神」。旧社地は個人宅で現社はその縁で役行者を奉る。


 元々この場所に浅間神社を勧請したのは、立久太夫という松阪魚町に住んだ商人で、天正三年(1575)年から四十四度の富士登山を経て、松阪領中を取り仕切る大先達となったようである。慶長十八年(1613)、太夫は当時の富士山本宮浅間大社の大宮司前能登守親時と申し合わせ、来迎寺の南側を流れる石川に御霊体の勧請を行った。また延宝七年(1679)には紀伊藩に裁定を伺って、ほぼ同じ場所、白粉(おしろい)町、当時は瓦町と呼んだ場所に社を建立している。それが明治四十一年まで鎮座した虎尾浅間の社である。

 現在の松阪で富士信仰にピンとくる人は少ないと思うが、松阪出身の国学者本居宣長は、短いながらも日記「松阪勝覧」で虎尾浅間について触れている。

浅間大明神 瓦町ヨリ南二丁程ハナレタル森ナリ 社ノ前ニ川アリテ、五月晦日富士ゴリヲトル者多シ、其日参詣多シ
神主 橘(タチハナ)先達

 社の前の川とは浅間川だろう、禊(ミソギ)を言い換えた富士垢離(フジゴリ)という専門用語も用いているし、参拝者の多かったことも伝えている。また神主の名前が、橘(立花)ということも書き添えている。

資料2 五街道分間延絵図(伊勢路見取絵図 第二巻上) 一部拡大


 「五街道分間延絵図」は、寛永から文化(1800年頃)に道中奉行所が街道管理のために制作した非常に詳細な絵図である。松阪を通った伊勢路沿いにあった来迎寺の西に、「神主 立花 ◇◇」「稲荷 浅間 山神」と記した虎尾浅間神社が見え、前には浅間川が流れる。連続する稲荷の鳥居も描かれているところをみると、ある程度信頼できる絵図であり、資料2では相当の拡大をしたものの、この図なら雰囲気や広さの見当がつく。

 また、江戸中期の松阪の年中行事を著した、服部中庸の「松阪風俗記」が伝える浅間祭の様子とも合せてみると、道者らの姿も蘇ってきそうである。街中の祭の様子から伝えている。

五月廿日 (中略)参詣のもの川端へ竹をたて、夫之しるしとして精進入とて今日が髪をミだし、ゆかたを着し、念珠を首にかけ、こしにひしゃく又しやくしやうなどさしたるも有、かくして川原にいで頭に手して水をかける、其となへる文にナムセゲダイといふ、是は南無浅間大菩薩の略と聞こえたり(中略)

廿十九日 (虎尾)浅間の祭礼なり、此所にも川ありて行人等コリスル事前のごとし、神楽殿ありて獅子頭を舞す、此社ノ吉田家の配下にて全くの神社なれ共、富士山へいたる時ハ山伏なり、ゆゑに両部也、此比浅間の初穂とて町中を神主廻る事有、其時ハ頭をかつら包に包て白装束にて全く山伏の姿也、平日烏帽子狩衣にて神主也
◯今日小麦の餅を製して田家がくばる、又家々ニても小麦を食すれバよきといひて、そうめんなとを煎食する家大かた多し

 松阪では既に富士信仰が一般的な年中行事となっていて、その中には竹を立てる風習と水垢離もあったようである。絵図の川の描写は、いかにも水垢離に都合の良い流れに見える。そこに禊する人が描かれていても不思議でない。実際には富士山へ登るときには潔斎ということで、当初は六十日の潔斎が必要だったが、その後七日間に短縮されている。旧暦五月二十五日から禊を行ったが、それを富士垢離と言い、その富士垢離は次第に富士登山と離れて年中行事として独立していき、富士垢離自体が富士登山と同様のご利益のあるものとなっていった(堀内真)。   

 「風俗記」からは、絵図にある「神主」の文字の下にある柱と屋根だけの建物が、神楽殿らしいことも分かる。獅子舞が奉納されていた様子も伝えているが、ここでも富士参詣曼荼羅図で巫女が舞う場面とイメージが重なる。獅子舞は大口浦でも奉納されていたとも聞き、華やかで活気のある印象である。富士山麓の村山浅間神社と同様に、大々神楽なども奉納されていたのだろうか。

 虎尾浅間の神主は通常は鳥帽子を被り、仏教と距離を置いた吉田神道だった一方で、富士に出掛けるときは山伏姿になって、両部(神仏習合)神道であったことも説明している。道者は祭礼のときには、小麦を材料にした物を口にしていたようである。松坂市史には、垢離をとって法螺貝を吹き、松の大木の上へ弊を立てたともある。


資料3 松坂絵図(天保~寛永頃)絵図下方に桜の咲く「浅間」の文字が見える


 虎尾浅間のあった場所は、明治六年に周辺の町と統合され、瓦町から白粉町という名前に変わっている。松阪商人、三井越後屋などの活躍で松阪の町は発展し、明治の声を聞く以前から既に、虎尾桜の咲いた浅間社の周囲は大きく様変わりしていた。白粉町の「白粉」(おしろい)は、遊女の使った白粉である。白粉は松阪商人が扱う大きな産業となり、街は遊郭の並ぶ愛宕町に隣接していたことから連れ宿屋などで賑わっていた。下記は昭和になってからの記録だが、松阪の大津町で行われていた浅間祭の一場面で、那古須川での水垢離を終えて、皆で松阪の街に繰り出すところである。

いよいよ待ちに待った夜。八雲神社の浅間へ総詣り。縦縞の銘仙に一尺五寸の白い鬼縮緬の帯を締め、「大津若衆」と記した提灯を先頭に繰り込む。「あれぇ、大津の若衆が通らんすわな」。愛宕町の柳の下には、首白粉のお姐さん達が、三人、四人。団扇で手招き、艶っぽい声での口説き。行きはすまして通ったものの、なんで過ごして帰らりょうか。
(まつりごよみ松坂・松浦良代)


写真2 日野町の八雲神社。右奥に虎尾浅間など合祀社の拝殿がある。


 記述から虎尾浅間は既に八雲神社へ合祀されていたものの、昭和初期でも近隣の富士講道者から崇敬を受けていたことが分かる。そして、主に青年男子の祭だった浅間祭は、祭りを終えた者達が夜になると遊郭に繰り出す俗的な風習もあったようだ。それらには、祭りを通じて一人前の男になるという意味もあったのである。虎尾浅間は「聖」、道者たちの向かった愛宕町は「俗」を。虎尾浅間の横を流れる浅間川は、聖と俗の境界を分ける役割も持っていただろう。

 そういう意味で、この現実世界だけに存在した松阪伊勢富士の曼荼羅は、西山克氏などが参詣曼荼羅研究の中で指摘する、伊勢神宮や熊野那智大社など中近世絵画の中にあった参詣図が伝えてきた異界を分ける”表現”も持ち合わせていたと言ってもいい。浅間川は巨大信仰拠点だった伊勢の手前を横切る境界の宮川の役割だったし、愛宕町は「聖」たる外宮・内宮を繋いでいた長峰にあった「俗」である伊勢古市の遊郭街だった。

 また、中世から近世にかけては、桜は浄土の象徴物ともされていた。もし仮に、実際に伊勢富士参詣曼荼羅という絵図が存在していたとするなら、極楽浄土の象徴物として描かれた虎尾浅間の桜の周りには、その求心的魅力に引き寄せられた遊女や旅人らの中に、揃いの浴衣を着た浅間道者らの姿も描かれていたに違いない。


資料4 虎尾浅間神主の立花丹後守が先達した檀家分布図 (「春長坊道者帳」より作成)


 虎尾浅間神社の初代神主は、立久太夫の息子だった立花淸七が務め、二代同久七、三代同孫右衞門、四代は富久、五代は孫右衞門、六代は近江にいた弟富次、七代は近江の伯父孫八、八代は養子定八がそれぞれ神主となっている。四代目の富久は特に、立花丹後守を名乗って、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の記録にも現れる。飯高、飯南を中心に、広い地域から信者を集めたようである。


元禄二年(1689)「駿州富士大宮本宮道者帳 春長坊」
(中略)
勢州一志之郡
同(六月)十三日
一 松ケ嶋 弐ヶ郷 (松阪市)
飯高郡    丹後守分
一 松坂町中    
一 小黑田村     (松阪市)
一 新田村     (松阪市小阿坂町)
一 五曲村 弐郷     (松阪市)
一 大石村 二郷     (松阪市)
一 横谷村     (美杉町)
一 波瀬村 八郷     (飯高町波瀬)
一 川口村 七郷     (白山町川口)
一 家城村 弐郷     (白山町家城)
一 眞見村     (白山町真見)
一 福田山村     (白山町)
一 竹原村 五郷     (美杉町)
一 八知村 七郷      (美杉町)
一 八手又村 五郷     (美杉町)
一 下ノ川村 六郷     (美杉町)
一 興津村 五郷     (美杉町奥津)
一 前原村 是ハ川上ノ內     (美杉町川上)
一 石名原村     (美杉町)
一 松平村     (美杉町杉平?)
一 三瀧村     (美杉町三多気)
一 太郎村 弐郷     (美杉町太郎生)

大和國之内
一 小屋村     (御杖村神末)
同所
一 神末村     (御杖村神末)
 
勢州渡會郡
一 草葉村     (?)
一 平生村     (度会町「ひろお」)
一 槇戸村 上下     (度会町牧戸)
一 大河內     (松阪市大河内町)
一 坂內村     (松阪市阪内町)
一 横野村     (飯南町横野)
一 深野村     (飯南町深野)
一 粥見村     (飯南町粥見)
一 川俣谷中     (飯高町粟野)
一 小原小河村     (嬉野小原町)
一 四谷村      (?)
一 五ヶ庄村     (南伊勢町五ヶ所)
一 多氣村     (美杉町多気)
一 井生村     (一志町井生)
一 波多瀨村     (多気郡多気町波多瀬)
一 嶋田村 (嬉野島田町)  此分立花丹後守分
二人             勘兵衞殿


 元禄二年六月十三日、富士山本宮浅間大社の側にあった宿坊である春長坊に宿泊した勢州からの道者衆として、松坂の「松ケ嶋」や「松阪町中」にはじまり、「勢州渡会郡嶋田村 二人」まで。文中には「松阪町中」に続けて「丹後守分」とあるが、およそ四十の村名の後に「此分立花丹後守分」として立花太夫の先達分を締めくくっている。
 立花丹後守が先達した村の範囲は、雲出川、櫛田川の流域を逆上って美杉村、更に国境を超え奈良大和の神末村にまで至る広範囲に広がっている(資料4)。南伊勢の五ヶ所浦や、以前美杉町の話で取り上げた竹原や太郎生、食行身禄生家のある川上の前原の地名も見える。道者帳の日付は元禄二年(1689)なので、寛文十一年(1671)生まれの身禄はまだ18才である。美杉町一帯で現在でも行われている竹の作法や、老人の記憶に残る水垢離、高所に奉られる役行者や大日如来の石像は、立花太夫ら、もしくはそれ以前の富士信仰の者が伝えたものだろうか。神末村から、これも以前紹介した三峰山に登り、大日を道標にして牛物流の栄えた国境の尾根上を西に歩いて、「両部曼荼羅」石標に降りれば飯高郡波瀬村である。

 松阪魚町に住んだ太夫は、商人の町松阪に多く居た、茶商のひとりだったのだろう。飯高の川俣や、美杉村川上など、太夫の檀家のあった場所の多くは、江戸期の茶の生産地である。川俣茶は松阪商人らによって江戸で販売されていたことは有名であるし、美杉の川上は現在でこそ美しい杉林が山を覆うが、建久二年(1191年)に栄西ゆかりの明恵上人が茶樹を分植したと記録され、江戸時代には紀州藩の奨励により村全体で茶を生産していた。現在でも横谷や前原では、浅間さんの麓に製茶工場が操業中である。身禄生家の周囲の山には、大日のある尾根まで茶畑が広がっていたという。因みに三重県の荒茶の生産量は、現在でも全国三位である。太夫は茶の商いを通じて、富士信仰の布教活動を行っていたと思われる。


写真3 神末村の権現神社 里山の高台にあって後方の木立が気持ち良い


 奈良県宇陀郡御杖村神末の森に、静かに佇む権現神社である。現在でも七月の晦日には、略式ながら浅間祭りが行われているという。社も綺麗に手入れされている。横には愛宕社、金毘羅社、庚申、山の神などの末社が置かれ、役行者の石像も威厳持って鎮座している。境内の立札にはこうある。

権現神社 祭神 木花開咲耶姫命
浅間大権現として祀られ、富士山本宮浅間神社の分社である。山を鎮める神として、山岳と自然を道場とする修験道によって奉斎が行われたもので、左の小祠には修験道をお始めになった役の行者の像が祀られている。

 立札からすると、本宮浅間大社の春長坊道者帳にある「神末村」とは恐らくこの場所のことであり、富士の参詣を先達した虎尾浅間の立花太夫は、松阪から神末村のこの地までやって来て布教活動である檀家廻りをしていたようである。ここにも取引をする茶農家があったのだろうか。

 また、神末村では文化庁の民俗調査が半世紀程前に行われている。

「服装は白いゆかた、帯も白で草履履きである。一日に二、三回禊ぎをする。この時「ヒー・フー・ミー・ヨー・イツ・ムー ナム ゴンゲン センゲン タイシ(南無権現浅間大師)」と唱える。竹の先には布を掛け、ミソギをしながら連珠をくる。部屋には掛け図を掛け、精進料理を供える。(前後略)」

 ここでも竹を奉りながら、水垢離を行う習慣が伝えられている。


写真4 虎尾浅間跡地の隣りにある来迎寺。元三井家の菩提寺。国重文の本堂裏手に石川が流れる。


 本文前半で、虎尾浅間の社は延宝七年(1679)に建立されたことを紹介したが、延宝七年といえば、堀坂山の鋳造大日如来の建立時期について説明したように、その六月にはこの地方を「大雨洪水、十ケ年未聞の高水」という洪水災害が襲っており、石川と愛宕川の支流(後の浅間川)に挟まれた河原のような地形だったその場所でも、未聞の洪水に見舞われたと思われ、災害鎮守の霊験のあった浅間神社は、当初はおそらく愛宕川流域の水の鎮めとしてそこに建立されたと考えられる。

 先に触れた虎尾浅間東側の来迎寺には、川之地蔵という石仏が奉られ、立て札にはこう記されている。

一願成就 川之地蔵尊
昔から浅間川、石川共度々の氾濫にて人畜の被害が甚だしかった為 この地蔵様をお祠り以来その被害から救われたのでした。その後、誰言うとなく 川之地蔵さん と言って崇敬されてきた。戦後道路改修のため現在地に移られてから人々の願いごと ひとつは必らず成就して下さる事は数多御功徳の実証するところであります。
ご命日は八月二十四日   川之地蔵尊崇敬会四日

 瓦町にあった虎尾浅間の北側と南側には、それぞれ愛宕川の支流の浅間川と石川が流れ、川の増水の度に洪水を起こしていた。立札にある浅間川の名は、もちろん虎尾浅間に因んで付けられたものである。当時まだ松坂の城下町は発展途中であり、堤防施設も不十分だったと思われる。人命や、家畜の被害も甚だしかったとある。虎尾浅間は建立時、「安産ヲ祈リ、或ハ、火災凶歳ヲ遁レンコトヲ願ウ」神様と崇められたが、江戸時代も後期になると霊験も多少緩んだか、地蔵にその役割の一部を譲っていたようである。



謝辞

白粉町町内会の皆様、来迎寺住職様、門様(元本居宣長記念館館長)、八雲神社の皆様、美杉町、御杖村の皆様、他沢山の方のご協力に感謝いたします。


引用参考文献

・久世兼由「松坂権興雑集」「同絵図」宝歴二年(松坂市史)

・松坂市史編纂委員会「松坂市史・民俗編」

・「伊勢路見取絵図」(五街道分間延絵図)第二巻上 東京美術、1986年

・服部中庸「松阪風俗記」(三重県史)、2012年

・堀内真「富士に集う心」(中世を読む3 境界と部に生きる人々)新人物往来社、1995年

・松浦良代「まつりごよみ松坂」 三重県郷土資料叢書、1989年

・西山克「聖地の想像力」法蔵館、1998年

・大高康正「参詣曼荼羅の研究」岩田書院、2012年

・浅間神社編「浅間文書算」名著刊行会、1973年

・文化庁編『日本民俗地図』第三巻

・伊勢志摩国浅間信仰図「60 松阪堀坂山 伊勢富士参詣曼荼羅 大口浦」、2016年

・伊勢志摩国浅間信仰図「53 身禄の里 美杉町1 浅間さんと大日信仰」、2016年

・堀田千津子、岡野節子、小倉和恵「三重の茶粥」鈴鹿医療科学大学紀要、2000年

・大喜多甫文「日本の地誌7 中部圏」(中南勢)藤田佳久・田林 明 編、朝倉書店、2007年

・西垣晴次・松島博「三重県の歴史」山川出版社、1974年

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