61 富士山が変える古代史観 富士山と埼玉稲荷山古墳(総論)

#61

資料1 埼玉古墳群と富士山など火山遺構が示す祭祀状況


 埼玉古墳群と富士山について周囲からの質問も多く、伊勢志摩の災害鎮守であるの浅間さんに関連してくる題材でもあるので、改めてまとめてみた。昨今の発掘や調査などから既に、古墳時代に関東に一定の政治的勢力が存在していた痕跡は見えそうである。富士山と連携した埼玉古墳群の祭祀軸は、その存在をイメージする場合に、非常に大切な要素となり得るだろう。そして何より、富士信仰の具体的な起源を捉える、大きなヒントにもなると思われる。

 火の国、火山国、災害列島。日本という国を言い替えるとき、様々な呼び方が有る。日本人は往古から災害と向き合ってきた。その中で行う富士山と災害伝承の探求は、富士文化を普遍的なレベルに押し上げる重要な試みとなるのではないだろうか。

 相変わらずの大法螺で無配慮な物言いだが、お許し頂きたい。


 富士信仰の歴史を遡ると、800年の延暦噴火や864年の貞観噴火などを例に語るものが多かったが、埼玉稲荷山古墳のある埼玉古墳群の祭祀状況から検討すると、5世紀後半、471年前後まで歴史を遡れそうである。

 471年とは、稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれていた文字、「辛亥年」に対応する。鉄剣の発掘された1968年以降、その辛亥年「471年」は実年代を計る基準となり、古代史研究を飛躍的に前進させることになった。またその鉄剣に、継体天皇の名前も刻まれていたことも画期だったが、ここで王権に触れることはしない。

 それよりも埼玉稲荷山古墳の祭祀位置からは、相当大きな規模で東国に富士山を意識した信仰と文化が存在した様子がうかがえる。つまりその信仰は、そこにあった社会が直接的に富士やその周辺の火山活動の影響、具体的には大きな噴火災害を受けていたことが起源になっているようである。

 埼玉古墳群の位置は、 日本列島における最大の地殻変動の傷跡である中央構造線のほぼ上に有る。合わせてその古墳群の祭祀軸は、富士山側面からの噴出である青沢溶岩流の先端に位置する山宮浅間神社、同じく溶岩流の前線で富士山からの地下水を大量に湧出する富士山本宮浅間大社、そして列島を横断する糸魚川ー静岡断層の末端に位置する静岡浅間神社など、それら富士山とその火山活動の遺構を直線に並べたラインを基本に、北は栃木の火山の男体山、西に飛騨の火山である乗鞍岳で構成され、東国文化の富士山と火山への意識は相当高かったと言える。

 ちなみに青沢溶岩流は、同位体測定で460年の噴出と年代が確定しており、噴出の収まったあと直ぐに再流出阻止の祭祀が始まり埼玉古墳群の構成点にもなったと考えられる。もしくは流出中も祭祀が行われていた可能性があるのか。

 また祭祀軸の構成地点も、溶岩流の山宮浅間神社には火、湧水の本宮浅間大社には水など、陰陽五行の「木火土金水」に対応し、その文化は中国由来の知識を取り込んだ高いレベルだったと言える。そして、それらが示す東国文化の地図上の範囲は、その文化の政治的な勢力範囲でもあったようにも見える。

 歴史を大きく遡るが、日本で最も遅れた稲作の導入は、東北地方などではなく、関東だったことも最近になって明らかになっている。これは、全国各地の水田遺構から採取した炭化物を同位体測定したもので、関東への稲作の伝播は紀元前100年頃とされる。そしてそれは、政治的な要因があったとも言われている。西から進んできた稲作は東海西部の尾張地方まで伝播した後、一旦停滞し、そのまま東進せず北陸を経て日本海側を北に向かっている。埼玉古墳群と富士とが示す東国の火山文化の範囲と、関東一円だったその稲作後進地の範囲は重なるようである。


資料2 渋川市の金井東裏遺跡で発掘された武人の胴体(群馬県埋蔵文化財調査事業団)


 稲作導入の遅れていたその後の関東平野を見てみると、古墳時代前期の4世紀頃になり埼玉古墳群の周辺に突然遺跡が現れ、畿内や東海地方西部系土器が出土する。水田や畑の跡も発見され、さらにS字状台付甕をともなう遺跡も発見された。埼玉古墳群のあった台地の周囲は埼玉平野を埋める広大な沖積低地だったが、S字甕は尾張地方の低地部で出現した土器で、この土器を制作した人たちは低地の開発を得意としていたことが分かっている。稲作開発を尾張にまで進めた人々の末裔が、ようやくやって来たようである。

 ここ数年、関東平野北西部にある群馬県の火山である榛名山山麓では、「甲を着た古墳人」の大発見で有名な金井東裏遺跡など、5世紀後半から6世紀初頭の榛名山の火山噴火に被害を受けながらも、果敢に稲作に挑み続けた人々の発掘が相次いでいる。

 元総社北川遺跡では、噴火による泥流で水田上に3.5mの泥が堆積したにも関わらず、その上に水田を復旧している。また有馬条理遺跡では、当初畑だった土地が噴火泥流で埋まった後で水田に転用され、その水田もまた噴火泥流で埋まってしまったのだが、今度は集落として利用が図られている。金井東裏遺跡では、正装と思われる鎧を着け、火山鎮火の祭祀をしていたと考えられる武人が、火砕流跡からうつ伏せたままの姿で発掘され生々しい。

 紀元前100年頃、国内で最も遅れて関東に稲作が移入されてから、火山災害を中心とした様々な困難を乗り越えて、関東全体に広がり定着するまでに、さらに数百年の時間が必要だったようである。

 5世紀後半、関東平野の中央に位置して火山祭祀を行い、国内最大級の大仙陵古墳に形成を類似し王権との関わりを示す埼玉古墳群が、その地域の開拓や災害復旧などをやり遂げ、稲作を関東に広く定着させた成功者らを称えた墓群であるのなら納得がいく。その場所はまた、関東を北から取り囲む上州信越火山群を源流とする、一級河川利根川が蛇行を繰り返した地域でもあり、灌漑開発や洪水対策にも苦心したに違いない。成功者らは、恐らく政治的問題や、それまでの民族的習慣などを大きく変える大事業も成したのだろう。


資料3 諏訪大社社殿の配置は、二等辺三角形により火山祭祀をするため


 東国には古い時代に、我々の知らない高いレベルの文化があって、その文化は富士と火山と自然環境自体を強く意識していたようである。また関東の周辺でも、中央構造線上にある長野県諏訪市の諏訪大社の四つの社殿は、火山である蓼科山と北横岳を頂点とする二つの二等辺三角形で鎮火祭祀をしているし、本稿の扱う伊勢神宮も、内宮・外宮と二見浦の立石(夫婦岩)の三点が示す二等辺三角形で火山である富士を指している。神宮の創建は周辺の発掘調査などから、辛亥年(471)と同時期の5世紀後半とも言われている。

 民俗的に言えば、両神社が御柱と呼ぶ柱立てを共通する特殊な儀式は、共に中央構造線上に位置し地震断層を意識するからであると思われるが、中世の行基図に表わされているように、鹿島神宮の要石を含めて、それらは地震鯰などの伝承を遡る地中の龍や世界魚を押さえつける古い鎮めの風習に基づいているようである。またその柱立てに類似する儀式が、起源不明であるのに現代でも一般に行われている砂盛に弊を立てる地鎮祭に残されていることにも注目したい。


資料4 三重県南伊勢町方座浦の浅間祭


 これらはその東国の火山文化の影響を受けていた形跡であると思われ、伊勢神宮を中心に分布する伊勢志摩地方の富士信仰である浅間さんの幾つかも、陰陽五行を経るなどした東国の火山文化の名残なのではと考えている。

 浅間さんの中には、埼玉古墳群が墳墓で富士を祭祀したのと同じように、古墳跡の墳墓の形状を残しながら塚として使い富士を奉ったり、祭祀場を津波避難所として信仰対象を明確に災害鎮守に向けているものも残っている。また現在でも行われている鎮めの儀式に、竹弊を持ち寄って高所に競い奉ることであったり、その竹弊を地面に据え置いて上記の神宮等と同じように柱立てしたり、地面を叩いたり、また砂盛を作ったり、踏みしめを行うなど、古い宮中行事の相撲儀式などにあった鎮めの習慣に通じる風俗を持っており、他地域の中世から近世に展開する修験道などの富士信仰に見られない民俗的な特徴が認められる。

 特に伊勢地域での竹の扱いに注目すれば、奈良期から神宮に奉仕する天皇の姫である斎王の住んだ斎宮の場所は、古くは竹郡(多気郡)と表記し、大和物語(951年)には竹の都とも記録される。一方平安初期に成立し、東国の火山である富士山を舞台に完結する物語を、竹から生まれた姫や竹取の老人らを主人公とする竹取物語と呼び、その姫は斎王をモデルにしているとも言われ、竹取物語が東国文化発祥であると仮定すれば、相互の文化に強い共通性を想起し非常に興味深い。

 何よりも、神宮を麓に置く朝熊山(あさまやま)から富士を遠望し、ひとたび噴火が始まれば昼夜その凄まじい力を見てきたこの伊勢志摩一帯は、その神が起こす最も恐ろしい天変地異である大地震(南海トラフ)と津波が、およそ150年毎に繰り返しやって来ていた。そして、日本有数の降雨地である紀伊山地を水源に持ち、河口にある神宮周辺の伊勢平野を形成していた一級河川宮川は、上流では土砂災害、下流では洪水と干ばつを頻発させていた。この地の人が特別に、災害鎮守の神に転化した富士火山を奉る根拠は、十分にあったと考えて良いだろう。


付録 伊豆達磨山からの富士


 伊勢志摩を中心に広がり、ちょっと変わっているが平凡で、お年寄りが大切にしている民間信仰「浅間さん」。その起源を探るため、当てもなく状況証拠の収集を始めたのだが、思い込みなのか本当なのか、未だ疑心暗鬼なのが今の心境である。浅間さんには実に様々な信仰や事象が累積していて、正体を表わさない。特に中世からの富士講の存在は大きく深く、それを探ることは、わざわざ迷路に入っていくことに等しい。唯一の道標は、やはり災害の伝承である。逆にその形跡を追うことで途中に見える、富士信仰の素晴らしい文化の展開は感動の連続である。またそれを記録することが最も重要なことなのかとも考える。

 今回は簡単だったが、埼玉古墳群の祭祀についてまとめるとともに、その歴史的位置づけについて、群馬県の考古発掘も加えて考察してみた。合わせて、その位置づけが伊勢志摩とその周辺に広がる浅間さんにどう繋がるのかも、これまでの調査をもとに検証してみたが、相変わらずの大法螺ぶりを大目に見ていただきたい。それでも、祭祀軸の意味付けについては、現在進行形で多数の参拝者を集める浅間神社の、神宮に比類するほど古い由緒をイメージするには十分な材料だったと思うのだが、神社には迷惑で大きなお世話だっただろうか。積み重なった歴史こそが大切であると勝手に思い込んでいる者の、戯言と捨て置いていただきたい。

 富士山が世界文化遺産に登録された頃の資料を読み返してみると、文化遺産の登録基準の一文にこうある。文化遺産は「ある文化的伝統または文明の存在を伝承する物証として無二の存在」であること。東国の火山文化が「ある文化的伝統または文明」の一部であり、また現代と繋がる災害の伝承でもあるなら、富士山が古代史観を少し変えるのかもしれない。


引用参考文献


・金井塚良一(編)「稲荷山古墳の鉄剣を見直す」学生社、2001年

・高橋一夫「鉄拳銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群」新泉社、2005年

・国立歴史民俗博物館「近畿以東の地域における弥生文化の波及年代」
   (弥生農耕の起源と東アジア・ニューズレター11)、2009年  

・「総社閑泉明神北4遺跡・元総社牛池川遺跡・元総社北川遺跡・元総社小見内5遺跡

   古墳~平安時代の低地、田畠、集落遺跡の調査」 群馬県埋蔵文化財調査事業団 編、2007年

・「遺跡に学ぶ」第37号  公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団、2013年

・「【平成24年12月10日付け】金井東裏遺跡に関する報道提供資料」

  公益財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団、2012年

・伊藤一正、西川肇「衛星データを利用した利根川の流路変遷に関する研究」 

 土木学会論文集G、2006年

・穂積裕昌「伊勢神宮の考古学」雄山閣、2013年

・大高康正「富士山縁起の世界 : 赫夜姫愛鷹犬飼」(企画展, 第48回) 富士市立博物館、2010年  

・伊勢志摩国浅間信仰図「39 埼玉稲荷山古墳と富士山と浅間神社」、2016年

・同「40 明和 斎王と富士の祭神かぐやひめ」、2015年

・同「42 埼玉稲荷山古墳と富士と浅間神社(追記)」、2016年

・同「48 諏訪大社の火山祭祀」、2016年

・同「2 伊勢の二等辺三角形」、2015年


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