60 松坂堀坂山 伊勢富士参詣曼荼羅 大口浦

#60

資料1 堀坂山頂上直下の金剛界大日如来


 「伊勢富士」とも呼ばれる、堀坂山の山頂直下にある智拳印を結ぶ鋳造金剛界大日如来である。落ち着いた表情と、真円の光背が目を引く。県内で知られる津藤堂藩お抱えの鋳物師、藤原秀種の作である。高さおよそ1.2メートルの青銅製の如来像は、屋外であると小さく見えるが、建物の中であったなら祭壇上にあって、堂々とこちらを見下ろし、伊勢富士の本地仏にふさわしい存在感だったに違いない。少し視線を低くして眺めると、より力強く見える。もとはここに、富士の頂上と同様に大日堂があったのではないだろうか。

 大日像の背中には延宝八年(1680)と、建立の日付が刻まれている。松阪市の災害史を紐解くと、元号の変わった延宝元年(1674)以降、この地方には毎年のように甚大な被害を及ぼした大雨や台風が襲っている。延宝三年八月四日、「宮川増水の為渡船顛覆して百余人溺死す」。延宝七年六月十九日、「大雨洪水、十ケ年未聞の高水」、などとある。大日像の結ぶ智拳印は、次々と起こる災害に鎮めのまじないを掛けているようにも見える。

 広域の人的被害があったのだろう。その直ぐした腰部には、「大口村」「西町二丁目」「勢州飯高郡」など各地からの寄進者が見える。そこに刻まれた地名と名前を尋ねると、偶然にその子孫に出会えることもある。数百年経った現代となっては人々にとって昔の災害の記録は遠い昔のことであり、逆に子孫の方々は一様に、伊勢富士の堀坂山「ほっさかさん」に奉られる仏像に、自分の祖先の名前が刻まれていることを、誇りを持たれているようである。なかには、この大日如来の写真を壁に大きく飾られているお宅もあった。 

 古い時代、富士火山を中心とした災害畏怖、災害供養の信仰を集めていた堀坂山は、現代であっても、駿河の富士山に比類する伊勢の富士であり、歴史ある城下町の誉の山なのである。


資料2 富士参詣曼荼羅(国指定重文・富士山本宮浅間大社所有)


 富士山の文化を伝える美術絵画に、富士参詣曼荼羅という絵図がある。昨年新たに一点、伊勢湾を挟んだ対岸の愛知県常滑市からその富士参詣曼荼羅が見つかっている。静岡県世界遺産センターの大高准教授が現地確認を行い、一月に美術誌でその報告が行われた。

 参詣曼荼羅とは、中世末期から近世にかけて、全国各地の寺社で制作された信仰光景と参拝の様子を描いた絵図である。ここで参詣曼荼羅の詳細は語らないが、その絵図を見ていると、当時の人々が信仰地に憧れた気持ちが伝わってくるようである。

 参詣曼荼羅図の中で富士山のものは、富士山本宮浅間大社が、富士山への登拝者を各地から誘引するため、京都の絵師狩野派などに注文して作らせたもので、詳細で芸術的にも優れ、現在では数点しか存在しないが、本宮浅間大社所有三幅のひとつが国の重要文化財、もうひとつが県の文化財に指定されている。

 国指定本の絵図を一覧すると、頂上には大日如来を含む阿弥陀、薬師の三尊が坐像として描かれ、その下には御室大日堂、中宮八幡、興法寺、大宮本宮浅間大社、湧玉池の垢離場、さらに下部には清見寺など駿河湾岸の様子が描かれている。そこには日本一の高峰富士の霊場が魅力的に表現されていて、信者を登拝に誘引するには格好の絵図である。


資料3 富士の形で親しまれてきた堀坂山。頂上に鳥居が見える。(松坂領一円図 享和三年(1803)部分 松坂市史地図集成)


リンク1 伊勢富士参詣曼荼羅(Googlemap筆者作成)


 伊勢富士である堀坂山は、山全体で富士参詣曼荼羅の信仰世界を再現したものではないかと考えている。いや、そればかりか、松坂の面する伊勢湾岸から堀坂山にかけての松阪の町規模で、それを表現しているのではないかとも考えている。

 中世の本地垂迹思想により、富士山の祭神だった浅間神は、仏的な姿を大日如来として表現された。本家、富士参詣曼荼羅にも富士の上に阿弥陀如来と並んで大日如来の姿があり、頂上の下には御室大日堂が見える。この堀坂山でも大日如来が本地仏とされ山の頂上に奉られ、女人結界が引かれた中腹には中宮八幡、峠の下には本宮浅間大社の別称である大宮を付す大宮八幡神社、更に下れば、西国からの富士参詣には必ず立ち寄られた秋葉山秋葉神社が秋葉三尺坊大権現として構える。国分寺は海から離れるが、奈良時代の瓦が掘り出されるなど、清見寺に引けを取らない古刹だった。


資料4 海岸に立つ大松の下に海水を汲む人物が見える(「富士参詣曼荼羅」部分)


 一方海に目を移すと、堀坂山祭事には昔、別当が山から10キロ離れた伊勢湾に面する大口浦で海水を汲む作法があったが、恐らくこれは富士参詣曼荼羅に見える「海水を汲む人」にちなんでいる。曼荼羅図の下方には、海岸の大きな松の下で天秤棒で海水を汲む人物が見え、大高氏の絵解きによるとこれは塩田にそれを運んでいて、清見寺を過ぎた由比ヶ浜周辺が塩田で有名だったことが紹介されている。堀坂山の霊場製作者は、この富士山山麓の風物までは知見がなく、もしくはそれが相応しいと考えて、これを富士の登拝に伴う水垢離のための海水と解したのだろう。

  古い富士登拝では、田子の浦で垢離をとり、海から登山をすることが原則だったので、堀坂山の製作者は堀坂山での祭事の習慣にも、松坂の大口浦で海水を汲んで水垢離をし、海から登山することを加えたと思われる。

 そうしてみると、竹弊を堀坂山へ持って登る際に歌う富士の道中歌の、「吉田港もそよそよと」という一説なども、本家富士参詣曼荼羅で駿河湾に浮かぶ到着船の様子を見るようで非常に興味深く、以降は大高氏のする参詣曼荼羅の絵解きの真似ごとにも成らないが、実際の堀坂山祭事の奉場や松坂の街の浅間さんを巡り、本稿独自の「富士解き」を行ってみたい。今回は、その大口浦から見てみる。


資料5 西黒部・大口・松崎三ヶ所界面続絵図(部分・松坂市史地図集成)


 別当が海水を汲んだ大口村でも堀坂山とほぼ同時期、六月末の三日間で若者衆による浅間祭りが行われていた。昭和になると公民館が御宿になったが、それ以前は各家が順番に御宿になった。富士山に登る者があれば、御宿には掛け軸が下げられ、御宿の前には竹で富士型の山を作り、提灯が灯され、登山に合わせて夜通しお参りが続いた。また獅子舞や、かんこ踊りが奉納される年もあった。

 昔の大口海岸は百余本の松林があり、ひときは大きな三本の松を「三本松」と呼び習わした。紀州藩の藩領は和歌山から松坂に至る紀州半島を大きく占めていたので、紀州公の参勤交代はこの大口湊を使って伊勢湾を渡り対岸の三河吉田湊に向かっていて、三本松は船を係留する場所として「船寄り松」「御船の松」とも呼ばれていた。

 また砂浜の続く美しい海岸には、「御岳山(みやま・みう)」と呼ぶ、漁師が目印とした小高い山あてがあり、そこで浅間祭の水垢離が行われた。その水垢離では、若者が泳いで海中に三本の竹弊を立てたのだが、陸にいる者は、戻ってくる者にいたずらをして石を投げたことも楽しい思い出である。


足も軽かれ・・・わっしょい わっしょい わっしょい・・
軽かれよーほいさ この村の祭りだ
みなそろた・・笹踊り・・
「打ってくれ・・しゃん しゃん しゃん」
もひとつおまけだ しゃん しゃん しゃん


 垢離が終わると、目通りが一尺(約30センチ)もある竹弊を担いで、囃子を入れながら村中を練り歩いた。 各家の庭に入ると、何人かで囲むように竹を持った若衆が、地面にその竹を「土撞(どつき)」していたとのことである。地面の神に知らせる為に地面を叩くことや、要石・鉾に見立てた竹弊で地中の龍を押さえつけることで、地震や津波に対する鎮めのまじないを行っていたのである。


資料6 在りし日の浅間松(「大口村を語る」川口勝平)


 村を練り歩くことが終わると、竹弊は浅間松、龍宮松と呼ぶ樹齢三百年以上と言われた大松の一番高いところに結び付けられた。若者衆の所有になっていた浅間松のあった田は一反の広さがあり、そこで収穫された米の握り飯が浅間祭りに子供たちに振る舞われたので、たくさんの子供が集まって来たという。

 その浅間松は盆栽にしたいくらいだと、近在からでも眺めに来るほど有名だったが、残念ながら昭和の台風などで枯れてしまった。大口町の人々はその松を偲んで、石碑が建てられたほどである。今もその松を惜しむ「浅間之神」と刻まれた石碑は、住宅地の片隅だが浅間松のあった近くに佇んでいる。


資料7 浅間松の記念碑(昭和四十六年)


 話を曼荼羅図に戻し「海水を汲む人物」から視点を変えて、海岸部分の描写で色鮮やかに細部まで表現されている松に注目してみる。曼荼羅図では、他の樹木がどんな種類なのか判然としないのに、松ははっきりと存在感を示している。図にはたくさんの人物が後から書き加えられているともされる。曼荼羅図には当初、人物の居ない松林だけの美しい描写があったようである。大口浦の過去の風景でも、恐らく素晴らしい松林が印象的だったに違いない。

 そうしてみると、本家富士曼荼羅にしても伊勢富士祭事の舞台となった大口浦にしても、それらは富士山を背景に天女の舞い降りた三保の松原の羽衣伝承などを意識していたのではと想像は広がり、また更に天女と印象を重ねる、都良香が「有白衣美女二人」と著した富士の女神にまで遡って連想することもでき、これらの風景はなおのこと興味深い。以降も伊勢富士周辺に残された浅間信仰の形跡を参詣曼荼羅に見立てて、そこに隠れる富士文化を積極的に試考してみたい。




感謝

最勝寺住職中島定禅様、川口様、中村様、川崎様、他たくさんの大口町の皆様。


引用参考文献

・大高康正「参詣曼荼羅の研究」岩田書院、2012年

・同「富士山信仰と修験道」岩田書院、2013年

・同「富士山の参詣曼荼羅を絵解くー重要文化財指定本と新出松栄寺本」

 (「聚美」2016WINTER、聚美社)

・川口勝平「大口村を語る」最勝寺、2000年

・松阪市市編纂委員会「松阪市史 第 1巻 自然」、1977年

・同「松阪市史 第10巻 民俗」、1981年

・同「松阪市史 別巻1  松阪地図集成」、1983年

・NHK名古屋放送局「図録 日本の心 富士の美展」、1998年


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