59 松阪堀坂山浅間さん 大日如来と牛の祭祀

#59

写真1 松坂市伊勢寺にある国分寺の御札


 梵字の「バン」を上に配し、その意味する「大日如来」を真ん中に。「伊勢富士権現」と「牛馬安全守護」を左右。その下に「牛と馬」の絵柄。絵柄の横には、「伊勢国」、「国分寺」とある。これは、松阪市のふるさと富士として有名な堀坂山の浅間祭事の後、麓の護国山国分寺(伊勢寺廃寺跡)で、江戸時代から刷られている御札である。御札は、夏の浅間祭事が終わった後、祭を取り仕切る別当が用意することになっている。堀坂山の浅間さんでは、大日如来は富士の本地仏であるとともに、現在も牛馬の守り神としての信仰も残している。


写真2 松阪市上川町大日寺の牛像


 2015年の日本畜産学会で優秀発表賞を受賞した麻布大学の山内寛之氏の論文によると、牛が地震の前兆を事前に察知して搾乳量を減らす習性が確認されている。近年のIT化で牛乳の生産者が電子乳量計で測定している搾乳量の記録は、既に相当期間が蓄積されている。

 論文ではそれらの内、東北近辺の生産者の記録を東日本大震災の地震発生記録と照合し、変化の期間、また震源からの距離、自然な状態での生理変化・ストレスなどを係数にして詳細な考察をしている。牛の変化の原因は地球規模で地殻を通る電磁波の変移に反応しているとの説もあるが、搾乳量の変化は将来実践的に地震予知に導入することを検討出来る段階にあるようだ。 

 以前から述べているが、世界各地の地震発生地域で牛と地震を扱った神話が伝承されている。これまで本稿でも、中国地方の断層分布と牛・大日如来信仰の分布が重複していることや、古来から続いた伊勢神宮の神馬を飼う習慣が地震鯰を押さえつける神宮馬の浮世絵になっていったことにも触れてきた。牛や馬が伝承的に地震と関連して扱われてきた形跡をみると、牛が地震の神と意識されていたと考えても良さそうである。

 地震予知の能力のあった牛は、中尊である大日如来の脇侍(きょうじ)としてその側に居て、地震の起こることを大日如来に伝えていた。その知らせを聞いた大日如来は、まじないの印相でもある智拳印を結んで、地震を鎮めていたのである。後世の人は、農耕での牛の役割が大きくなると、牛と大日如来の姿を見て、大日如来を牛の守り神と勘違いしたのだと考えられる。いや、そうであって欲しいと、強く要望したのかもしれない。

 科学的論証を待つまでもなく、キリストや聖徳太子の生誕が厩(うまや)だった例からも分かるように、昔であれば人と牛はもっと身近で、同一の家屋の中で生活していたケースも見られ、牛の飼い主は地震の前の牛の微妙な変化にも気付いていたものと思われる。この災害除け信仰を持つ浅間山でもある堀坂山で、往古は牛が地震の神だったと考えても無理な話ではない。

 大日如来は釈迦や薬師など、様々な仏にも変化していた。災害厄除の神として牛とも結びついたのだろう。その後、農耕に欠かせなくなった牛は、社会の安定した江戸期には一気に需要を増し頭数を増加させた。そこで大日如来は、地震の神から大切な牛を病気などから守る神に変転したのである。

 大陸プレートの境界にあって、その大陸の押す圧力によって世界の屋根であるヒマラヤの山脈を創り出したブッダ生誕の地震大国インドで、現在も街中を悠々とその巨体で歩き、神の動物として崇められているのが牛であることを思い起こせば、それが地震の神であることに疑いはない。

 写真は、浅間祭も行われた松阪市上川町の大日寺に奉納された牛像である。この大日寺の牛信仰は、江戸時代以降、前回まで紹介した美杉町付近にまで広がっていた。恐らく当地で、当初は地震災害の神として大日如来と一体だった牛は、江戸期に大切な家畜として大日如来に守護される立場になり、現在では「松阪牛」として松坂の経済を支える産業神に変遷していった。昭和五十四年に奉納されたこの牛像は、信仰が時代とともに変化するものであることの分かる好例でもある。


写真3 堀坂山参道の大日石と浅間祭の竹


 松阪では、江戸時代中頃から牛の守り神としての大日信仰が盛んだった。松阪だけに松阪牛を連想するが、それは明治以降である。今でも市内のあちこちに大日石を見ることが出来る。その信仰は農耕の働き手として牛が大切にされた証である。ただその牛の信仰には、地震の神という前提もあったのである。

 堀坂さんの浅間祭事では、大日石は牛の神としてだけでなく、特別な祭祀の対象となる。もとは国分寺住職が務めた祭事の別当は、堀坂山頂上に至るまでの参道でいくつも社・祠を巡るが、その多くは大日如来である。その道は本居宣長も歩いた飯高からの街道でもあり、およそ等間隔に置かれたその祠は登拝者や牛の荷運びの目安にもなっただろう。 大日の祈念碑は峠を離れると、山道の中腹では胎蔵界大日を表す鋳造坐像と真言五輪塔としてはっきりと姿を現し、頂上目前で智拳印の金剛界大日となり堀坂大権現を見守る。

 堀坂山は松坂市街を見下ろす位置にあり、市内のどこからでも目にすることのできる松坂の町の鎮守山的な存在である。伊勢寺、勢津、与原、三つの麓の村が接するその山で、いまでも三郷合同で浅間祭事は行われている。その祭りは、現在でこそ規模は縮小しているが、伊勢志摩地域で最大規模の浅間祭りだった。


写真4 頂上に残る竹弊の根本


 頂上では別当を中心に三郷の代表が前日の夜、竹の根が深く地固めすることを由来にするまじないに、わざわざ根付きの竹弊を持ち寄り、それらを並べ高さを競う。選ばれた築弊は堀坂大権現の祠に押し立てられ、盛ったあられが備えられる。そして準備してあった大松明に火を付け、翌朝の日の出を待つ。松明の炎は麓の在所からでも望めたという。

 それには、堀坂山頂上から見える日の出(大日)と、富士火山への畏敬を胸に念じながら、雨乞いを含む旱魃や洪水など水の災害、そして大地を揺らす地震災害から無事でいられるよう祈りが託されている。



引用参考文献

・山内寛之(麻布大学動物応用化学専攻)

 「地震の直前予測へ向けた動物の前兆的行動に関する研究(第3章第1節)」

 麻布大学学位論文、2015年

・伊勢志摩国浅間信仰図「54 中国地方北部で発生した地震」、2016年

・同「31 神宮・神馬」、2016年

・松阪市史編さん委員会「松坂市史」松阪市、1983年

・沖浦和光「竹の民俗誌」岩波新書、1991年

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