58 身禄の里 美杉町4 相地大日如来倒木整備

#58


 前回から、身禄の生家のある美杉村川上相地の浅間さんについて書いている。今回は大日如来の祠の倒木が片付いたので、綺麗になった祭祀場を紹介できる。

 左が現役のもの。右が古い大日如来である。右のものは倒木の下敷きになって埋まっていたものを、相地の方々に掘り出していただいた。昔の大日如来が破損しているのは、倒木のせいでなく、かなり昔に凍結割れなどで壊れたものらしい。左半身を喪失し、首が折れている。

 それでも智拳印を結ぶ手は腕がふくよかで、そのバランスは全体にも及び、現役の大日如来に比べて丸みを帯びている。もともと大日如来の坐像の外観は、高野山の根本大塔や、五知如来などを表す真言の五輪塔などにも取り入れられている永遠のフォルムである。身禄もこの大日如来を拝んだのかもしれない。現役の物は、現代的な顔立ちが印象的である。とても優しげな中にも冷静さを感じる。



 前回紹介したように相地の祭事は、大日如来の石仏を奉り、伊勢志摩地方や同じ美杉村の富士信仰と同様七月上旬に竹弊を高所に上げる祭りを行う。しかしながら相地ではその祭りを大日参り、大日こもりと呼んで、その場で酒宴を行う祭りの習慣は、直ぐ側の県境を超えた奈良のダケ信仰とも重なることも述べた。今回は祭祀場の整理にもお邪魔できたので、もう少しお話しを伺えることになったのだが、やはりここでも大日如来は牛の守り神だともいう。

 県内で最も山間部のこの村でも、農耕や物流に牛は欠かせない働き手だった。美杉村というものの、村内全てで杉を育てていたわけでなく、相地で杉の植林を始めたのはここ百年くらいのことで、それまでは山肌には茶畑が広がっていた。摘み取られた茶は牛を使って各方面に運ばれた。相地のある谷の源頭にある三峰山の稜線の峠ごとに大日如来が奉られ、それが物資の運搬の為に峠を越える牛を祀っていることも以前紹介した。

 相地の在所から三百メートル以上の標高を登ったこの大日祭祀の場所では、一年間草を生えるままに置いておいて、七月の祭りの日にその草を刈り取り、祭りの後それを持って降りて牛に与えていたということである。その草を食べた牛は、一年間病気をしないと信じられた。相地の人達は、牛の守り神である大日如来の祭祀場の草に、牛を守る霊験を求めたのである。実際にその場所の草には笹なども混じり、毒下しに効いていたのかもしれない。



 富士講の指導者食行身禄の死後、この相地の生家には沢山の弟子達が訪れているが、彼らはこの川上を富士講の聖地にしようと活動したようである。その中で、大日こもりの場所への登山道の途中には、身禄が富士山の烏帽子岩の下で入定したことに因んで、「身禄の墓」と呼ぶ祠も作られた。また、同じ川上前原にある大峰山ゆかりの富士信仰である浅間さんには、身禄の講の掛け軸「御身抜」が奉納されている。ただそれらはなにより、この場所が昔から富士信仰が根付いた土地だったからに他ならない。身禄の弟子らの行動は、この土地に身禄以前から富士信仰があったことを理解しての行動だったのだろう。

 災害厄除の信仰である伊勢の富士信仰と、同じ災害を意識した大日信仰、そして高所避難の習慣を伝承するダケ信仰、それらは信仰先進地の奈良に近く伊勢本街道や中央構造線など文化の交差したこの場所で、「災害繋がり」を持って習合したのである。



 今回の美杉町の訪問では、相地の方々に大変お世話になった。とても貴重なお話も伺えた。新しく付けた祠の屋根の裏側には、「2016年11月12日大日如来倒木等の補修」として赤堀さん、岡野さん、田川さん、佐野さんらの名前の横に、「浅間研究会」と但し書きして、筆者と江崎氏の名前も追記して頂いた。お恥ずかしいばかりだが、村の一員になれたような嬉しい気分になれた。重ねがさね感謝したい。来年の大日参りも七月上旬だという。南伊勢の浅間祭りの一番忙しい時分だが、なんとか駆けつけたいと思っている。



引用参考文献


・伊勢志摩国浅間信仰図「53 身禄の里 美杉町1 浅間さんと大日信仰」、2016年

・伊勢志摩国浅間信仰図「56 身禄の里 美杉町2 源流の村」、2016年

・伊勢志摩国浅間信仰図「57 身禄の里 美杉町3 身禄の拝んだ大日如来」、2016年

・三重県史編纂グループ「小林家から寄贈された富士講関係資料」歴史の情報蔵HP


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