57 身禄の里 美杉町3 身禄の拝んだ大日如来

#57

写真1 美杉町川上、相地の大日如来


 美杉町川上の相地(そち)、食行身禄の生家のある村の浅間さんである。相地の中ほどにある沢筋を三十分以上登山すると、その沢の源頭にある。踏み跡は途中いったん消えたり、沢筋を離れたりして迷いそうである。数年前には下山時に道に迷い、ひと山超えた向こうの、若宮のある沢筋にようやく辿り着いた方もいたとのことである。高さにすると、出発地点から三百メートル以上の標高を上げることになる。最後の登りなどは踏み跡もなく、急斜面を無理やり登る。登る者の度量を試しているのだろうか。訪ねるには、道のない山歩きに慣れてないと難しいかもしれない。マムシにも三度出会った。

 そこは、夏の蒸し暑い日でも風が通り、快適な場所であると聞いていたが、その場所に初めて辿り着いた時は大きな台風の後で、抱えきれないほどの大木が倒れていて、聞いていたような「とても雰囲気の良い場所」とはとても思えなかった。それでも、確かに大日如来はそこにあった。傾いているが小さな屋根に守られて、そこに鎮座していた。

 後で聞いたのだが、もう一体、今の大日如来は以前の像が損傷した折に新しくしたもので、古い大日如来がすぐ隣にあったそうである。私の登った時は、倒木の下敷きになっていたらしい。今年も竹を上げる行事は行ったとのことで、如来像の手前の神木である松に竹弊が縛り付けてあった。


写真2 相地の浅間さんの竹弊


 里に降りて相地の方々に伺ったのだが、この浅間さんは少し様子が変わっている。大日如来を奉ること、7月のはじめ頃に祭事を行うこと、そしてその折に高所に竹弊を上げることでは、伊勢志摩地方の浅間行事と同じ要素を備えているが、水垢離、唱え文、掛け軸、富士参りなどの言い伝えがなく、行事を「大日ごもり」「大日参り」と呼び、浅間行事とは違うのではないかと疑心暗鬼になる。

 さらに、その場所の雰囲気の良さを再三強調し、その場に重箱の御馳走を運んで酒宴を行い、酒宴では火を焚いて、「それで酒を燗にした」、「パイナップルを初めて食べた」、「酒を5升は飲んだ」などの発言が出てきて、これは、奈良県周辺で行われていた、春に行う高台での年中行事である「ダケ(岳)信仰」と習合しているのではと迷わせる。近くの高見山もダケ信仰の山であるし、只の直会と片づけられない。ダケ信仰には家族で山に登っての会食や松明の習慣も伝えられている。

 しかも、この酒宴には、独身の女性も加わっていたとなれば、これまで伊勢志摩の浅間祭りの中で女性の参加といえば、さざら浦の念仏女性くらいで、今までの浅間さんとはちょっと様子が違う。ダケ信仰と浅間さん、ふたつの信仰は、この大和と伊勢の国境で、高所に登るという災害避難の意識が共通して繋がったのかもしれない。


写真3 相地の「大日こもり」


 さらに写真を見せていただくと、セビアに変色するが、それはそれは、とても生き生きとした祭事?の様子が伝わってくる。「大日こもり」や「大日参り」など、写真の上に書かれた文字からは、この行事への愛着を感じる。山に出発する人達の後ろに、長い竹弊を肩に乗せている姿も見える。その竹を神木に掲げる作業も楽しそうである。古い大日如来には身禄も手を合わせただろうか、古いものと現在の、二体の大日如来も、とても雰囲気の良さそうな場所に並んでいる。

 手前の地面には、周囲の草を刈って掃除したゴミを燃して、焚き火をしているようである。ここで燗をした酒を飲んだのだろう、興に乗って肩を組む姿は、この相地の方々が家族同然であることを語る。独身女性、という限定の参加には、禁制の名残が見えるのか、それにしてもその場を華やかにしている。

 台風の倒木は、筆者も一緒に村の若手衆と11月に片付ける予定である。雰囲気の良い場所と、昔の大日如来に会えるのを楽しみにしている。


写真4 非浦の大日さん


 相地と川を挟んだ非浦(日浦)は、双耳峰の浅間山を持って、一方の頂に胎蔵界大日如来、もう一方の頂に仏像は智拳印大日如来だが薬師如来と呼ぶ祠を置く。地理的にはもう、両部界曼荼羅の形式をとる、といった方が良いかもしれない。三峰山の向こうには両部曼荼羅と彫られた石の道標などがあって、もうすでに真言密教の濃い地域でもある。

 この浅間山は元々、山に接する非浦(日浦)、中村、宮ノ木、中野の合同の浅間さんとなっていたが、現在はもう高齢化でこの高所までやってくる人はいない。非浦のお年寄り方が、麓に竹弊を掲げて遥拝所としている。ここでは山を「浅間さん」と呼んだが、祠は「大日さん」と「薬師さん」である。相地から見ると双耳峰がほぼ水平に繋がり、美しい富士型の山である。身禄の生家の窓からなら、正面に見えたはずである


写真5 川上前原の浅間さんの道具


 前回触れた、同じ美杉町川上にある前原の浅間さんである。この浅間さんも、面白くなっている。見せて頂いた講箱からは、十三仏の掛け軸と一緒に、身禄の「御身抜」。すぐ横に「大峰八台、こんごうろうじ(童子?)」と修験の唱え文の紙も並ぶので目がウロウロするが、身禄後に、後継の小谷三志という方が川上を身禄の聖地にされようとした影響である。相地の浅間さんに登る途中には「身禄の墓」と呼ぶ石があるし、生家の下の湧水には「身禄の産湯」と名前が付けられている。三重県立博物館には、三志が生家に奉納した経文や、身禄の子孫と三志が交わした書簡なども残っている。

 見えている「南無浅間唱文」と題された黄色のメモには、前半は般若心経、後半は富士垢離の作法である。

川に行きすぐ水に入る ジュズをくり、一(ヒイ)、二(フウ)、三(ミイ)、四(ヨウ)、五(イツ)、六(ム)、七(ナナ)、八(ヤッツ)とくり、なむせんげんだいと、となう 八回唱え、六十四回(?)の上 水に頭からつかる 是を二回同じやうして 川から陸に上り 左の事を唱える
  ちめうちょらい せんげせんげ
  ろつこん しよじよるんでに 大しやな
  りやうふの大日 大りよう ごんげん
  南無せんげん 大ぼさつ
  行者人面大菩薩
         二度唱ふ
そして もう一度川につかる

 垢離の様子が、リアルに記録されている。


写真6 前原浅間さんの社に張られた札


  前原の浅間さんの祠にあるのは大日如来の石仏ではないものの、丸い自然石だが社で守られ大切にされている。横の神木には、数年前縛り付けられた竹弊が今も残る。ここでも伊勢のように、昔は高さ二十メートル以上にもなる神木の梢にまで登って竹弊を掲げたそうである。

 もともと前原の裏山にあった浅間さんの祠は、その標高が500メートルもあって登山が大変だったのでここに移してきたとのことである。社の柱には、つい二十年ほど前、ここに移した時の平成五年(1993)の日付と、蔵王権現を奉り三多気の桜で有名な真福院の名前が見れる。真福院も大日如来石を頂上に持つ大洞山を神体とする修験の拠点だった。


リンク 美杉村周辺の信仰事情


引用参考文献

・伊勢志摩国浅間信仰図「Vol,53 身禄の里 美杉町1 浅間さんと大日信仰」、2016年

・伊勢志摩国浅間信仰図「Vol,56 身禄の里 美杉町2 源流の村」、2016年

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