56 身禄の里 美杉町2 源流の村

#56

写真1 小原の浅間さん


 美杉町小原の浅間さんも役行者を奉っている。少し地蔵に似ているが、錫杖と巻物を持ち、祠の裏側に竹を上げて浅間行事を行っている。村のずっと下を通る雲出川沿いの神木にも、とても分かり辛いが川の弊を縛っている。ただこの役行者の石像は全く個人の方の山に奉られていて、その方の家が代々浅間行事を行ってきている。普段人は近づけない。

 美杉町でも北側の浅間さんは、役行者を奉るところが多いようである。前回紹介した竹原の中の瀬木という場所でも、竹原神社の境内にある山から降ろした浅間さんは役行者である。伊勢志摩方面と石像のスタイルにも違いが見られるのは、いよいよ修験道の地元大峰に近づいているからだろうか。


写真2 丹生俣の大峯山三八度参拝記念塔 


 上多気の辻を南に向かうと丹生俣と呼ばれる場所がある。ここには、美杉町内で最後の行者講先達だった方の家がある。先達は数十年前に既に他界されている。現在は遠方に住まわれているご家族が、時折帰られて家を守られている。表札の横には、護摩焚きを行った寺院の札が数多く並べて張り付けられ、その中には吉野の竹林院や、伊勢の世義寺の名前も見える。毎月のお勤めや行事は欠かさず、随分と熱心に行者講の活動を行っていたようである。丹生俣には大峯代参に参加された方も多いという。丹生俣のちょうど真ん中の小高い場所には、先達が三十八回の大峰登山を行った石碑が残されている。そこは、元は街道に面していたのだろうか、伊勢参りの「太一」を刻んだ常夜灯もある。

 先達がご存命の頃には、村中が浅間祭りに参加して、丹生俣を流れる川に竹弊を立て、浅間山に山の弊を上げていたそうである。浅間さんの祠は村からも望めた場所で、昔は切り開かれて村を見下ろしていたという。祠は古墳を改変して作られているようである。智拳印大日如来と、鳥帽子岩を模したものだろうか、両側に奇形の自然石を奉る。  


写真3 前原浅間さんのメモ


 隣の川上地区に入って直ぐ、前原の浅間さんのメモには、こう記されている。

小生昭和四年に初めて入る 其の時分は七日間の修業を重ねたものであるが 大東亜戦争後は三日と短縮 尚それからは村に於いて修業者が無いため記録帳通りの(?) 人がお厄介になっていた処 それも年寄となって段々へり 今現在一人となって 一日の短縮となった訳

 次第に講員も減り、精進の期間が短くなっていった様子が記されている。前原には先達してくれる修験者が居なかったことにも触れ、恐らく他地区の修験者に世話になっていたのだろう、その人も年寄りになって、現在は自分一人となってしまったという、とても物悲しい文章だが、昔の美杉では各地区に修験者がいて、丹生俣のように行者講の祭りや浅間さんの行事を執り行っていた様子が垣間見れる。また、戦争が浅間行事にも影を落としていることも分かる。  


図1 雲出川流域図(原図:中部地方整備局三重河川国道事務所)


 食行身禄が生まれたのは、美杉町の中でも最も山深い川上という村である。美杉町川上という地名は、県庁都市の津市を潤す一級河川、雲出川の源流であることを意味する。そして、その美杉町川上に鎮座する川上若宮八幡宮は修験や国司北畠氏の祈願所として広く知られているが、その社の位置は雲出川という主要河川の源頭を守る祭祀地であることが地図を見ればよく分かる。古くから三重県中部の中心地だった津に恵の水を運び、時には大雨を受けて増水し、災害を及ぼした大河の鎮めとして八幡宮が置かれたと地理的状況は物語る。前回、三体の大日仏を紹介した本来の雲出川源頭である三峰山は、現在でも三重大学の演習林で古くからの管林だったので、すぐ側の修験業山を神体としたのだろう。北畠の館からの利便もあったかもしれない。

 中央に位置するその三峰山を最高点とする高見山から局ケ岳に至る中央構造線の山脈周辺には、筆者が確認しただけでも8本も不動滝があり、それぞれに不動尊が奉られている。修験者が単独で修行を行った、もしくは不動講として業を行った滝に不動滝と名前をつけている。8本の滝と不動尊は、断層地形としての中央構造線と、雲出川源頭としての三峰山の鎮めとなっている。不動明王は、大日如来の化身とも言われるし興味深い。

 もともと美杉町川上という場所は、水を大切に守り、荒ぶる川の神を鎮める信仰の強い場所だった。そして伊勢と大和を繋ぐ伊勢本街道、中央構造線が醸す文化の中で、ここは必然的に、信仰の集まってくる土地だったようである。


リンク 身禄生家と三峰山周辺の信仰状況



引用参考文献

・伊勢志摩国浅間信仰図「Vol,53 身禄の里 美杉町1 浅間さんと大日信仰」、2016年

・中部地方整備局三重河川国道事務所HP

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