55 高台避難
写真1 志摩市相賀浦では旧相賀小学校(現海ぼうず)の裏山が浅間山
東日本大震災時に被災地内の学校で最大の津波被害を出した宮城県石巻市立大川小を巡った裁判に判決が下った。死亡・行方不明になった児童七十四人のうち二十三人の遺族が市と県に計約二十三億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、仙台地裁は二十六日、計約十四億二千六百万円の支払いを市と県に命じた。学校側は津波襲来を予見できた上、助かった可能性が高い裏山を避難先に選ばなかった過失があると認定。津波を予見した段階で裏山に避難していれば被災を免れた可能性は高いと判断した。「中日新聞2016年10月27日記事より」
遺族側は、裏山に避難していれば、短時間で容易に津波を回避できたと主張。今回の判決は、裁判所がこの意見を認めた形である。
写真2 阿曽浦では「浦」の浅間山が避難所
浅間さんを探して歩いていて、浅間山を指して、山の形を愛でたり、その山を自慢したりする人に出会うことは余りない。津波被害の多い志摩や南伊勢の浅間さんを回ってみると、浅間山が富士への憧れを表したものであると言うよりは、高台への避難の術を伝えているものなのだということがよく分かる。実際には、具体的に避難所となっている浅間さんも非常に多い。
写真1の志摩市相賀の浅間さんでは、少し前まで子供が祭りに参加していた。今では土曜日にも学校があったりして、六月の夏至前に行われる浅間祭りに子供は参加していない。祭ではお母さん方が今でも、直径30センチもあろうかという巨大な富士型のぼた餅を作る。それは子供たちを喜ばせるためのひとつの演出でもあったという。子供たちは大人と一緒に学校の裏山でもある浅間山に登ったあと、ぼた餅を喜んで食べていたとお母さん方は寂し気に語る。この相賀では、子供も一緒に高台の浅間山に登り、大切な次世代を守るために災害の避難訓練を行っていたのである。
写真3 祠の隣にある錦浦の「浅間山避難所」
以前にも触れたが、市町村が定める災害の避難所は、行政側が指定して決めるものでなく、住民側の自主的な判断でその場所が決められる。志摩や南伊勢の沿岸に住む住民は津波の避難所を決めるときに、無意識か、意識的か、自然に浅間山を選んでいる。過去から津波の逃げ場は、この地方では浅間山と相場が決まっている。
石巻市の大川小学校では、裏山の山崩れの可能性や、もともと小学校自体が避難所だったということから、避難時に意見が分かれたという。確かに高台への避難が100%でない場合もあるだろう。しかし、およそ150年毎に南海トラフ地震を経験する伊勢志摩地方では、津波発生時の避難は高台に避難をすることが、先人の知恵として、一年に一回の浅間祭りによって周知されている。ただ、その言い伝えも忘れられようとしているのだが。
石巻の小学校の関係者の方々には、心からお見舞い申し上げたい。
引用参考文献
・伊勢志摩国浅間信仰図「Vol.6 大王町船越 津波避難所」
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