53 身禄の里 美杉町1 浅間さんと大日信仰
写真1 美杉町川上相地にある食行身禄の碑
富士山の話を持ち出すと、多くの美杉町の方々が、身禄さんのこと知っとるかと、村の自慢話として江戸期の富士講の指導者、食行身禄のことを語ってくれる。田川氏の本の影響もあるのだろうが、その顔は笑やかで、ここでの身禄さんはとてもみんなに親しまれている存在である。それは心の中で、この山深い地から遠い富士に憧れた気持ちを、身禄と共有しているからとも思える。
身禄さんの話をすれば、ロッコンショウジョウと唱えながら、同輩と歩を進めた自分の富士の記憶が蘇ってくる。そこには精進したこと、水を頭から浴びたこと、この伊勢独特の竹を上げる行事を行ったことも入り混じっている。美杉町では未だ、富士講での富士登山は、一人前になる儀式のひとつとして、とても古いが、かすかな思い出のひとつである。
写真2 木立の上の方、小さく白いのが竹原の浅間さん、山の弊
写真3 竹原浅間さん、川の弊。こちらの方がよく目立つ。
美杉町の浅間さんは幣を、川側と山側、二か所に奉ることが基本である。特に竹原のある八知地区では、山側に寺があることが多いので、山側の弊はその境内などに奉る。河原の弊は川の洪水の鎮めとなっているし、山の弊は土砂崩れなどの鎮めとなっている。ともに台風や大雨などに起こる災害を厄除けするまじないとなっている。近隣で40代、若い方?に伺うと、川沿いに見かけるので雲出川で釣りをする人たちの事故除けのまじないかと思っていたという返事も戻ってきて、それも楽しい。
写真4 竹原浅間さんの竹弊と、その向こうに役行者の入った祠が見える
竹原では、10年前まで富士登山を行っていたという。その頃は浄衣を着て川で水垢離も行っていたが、やはり高齢化で止めたそうである。それでも、雲出川の河原と真福寺の横の高台にある浅間さんに、現在でも竹を上げる習慣は絶やさず守っているという。竹は昔は神木の高所に結び付けていたが、今はそんなことができる者も居ないので、浅間さんの周囲の木立の高さを超える長さの竹を探してきて幣を上げているそうである。そうすると冒頭の写真のように木立から少し弊が見えるようになる。浅間さんの祠には役行者が奉られている。横には「大日如来は浅間さんの神さんや」(仏さん?)ということで、昔牛を飼っていた頃に奉っていた大日石を村中から寄せてきている。
写真5 太郎生の胎蔵界大日自然石塔婆
美杉町は信仰先進地の奈良県との県境であり、大日如来の様相も多彩である。
写真は富士信仰とは関係ないが、太郎生の胎蔵界大日自然石塔婆と呼ばれる板碑である。太郎生はそれこそ信仰の山倶留尊山を境に奈良と面する地区である。卒塔婆には月輪に胎蔵界大日如来を意味する梵字(種子)「アン」が刻まれている。同じデザインの板碑が近くの三多気桜で有名な真福院にあり、それには鎌倉中期、「弘長元年」(1261)と刻まれており、この太郎生の板碑も同時期のものとみられている。
両側の石柱は江戸期に曹洞宗の僧侶が保護のために付けたものである。石柱には前を流れる名張川の碧い流れを愛でて、「願行甚深直下流碧漂、処徳最高上窃々一行」と刻まれている。もとはもう少し川べりにあったそうで、大日如来はここでも牛の守り神で、街道に面するそこは牛の水飲み場だったと解したが、よく見ていると、横にはルンゼ状に小川の流れが名張川に注いでおり、木がなく空が開けている。
写真6 太郎生上空より(Google earth)
航空写真で見てみると、詳しくは地質調査が必要だが、ここはこれまで何度か土砂崩れを起こしてきた場所のようである。現在も岩肌が見える倶留尊山から続く上部の山岳稜線は、つい30年ほど前まで火山隆起の岩盤が見える樹木のない岩山だったという。そこに降った大雨は、森で保水されることなく広い流域面積の水を集めて、この小谷に集中した可能性は十分に考えられる。
写真を見ると今も法面にはその影響は明らかだし、川の蛇行のピッチに乱れが見られる。流出した土砂は川に出て広がり、今は田園となっている様子も見てとれる。この名張に向かう街道に置かれた大日種子塔婆は、そこで過去に土砂崩れのあったことを伝え、再びそこで土砂崩れの起こることを注意喚起している。
写真7 三峰山(みうねやま)の頂上直下にある大日如来石柱
写真8 三峰山の新道峠の大日如来石像
写真9 三峰山の白髪峠に埋められていた大日如来二体
リンク1 三峰山の大日如来
三枚の写真の大日如来は、美杉町の南端にある三峰山稜線の尾根上に並ぶ大日如来である。正確に言えば大日如来が並ぶのは、三重県の松阪市月出村と奈良県の御杖村の境界線上である。この稜線は標高的に千メートル近くにあるものの、アップダウンが緩やかで、下の谷間にあった伊勢本街道や和歌山街道が洪水などで通行不能になった場合の間道としても使われたという。また、かつて伊勢国と大和国の境界線だったこの地域では両国の物資交流が盛んで、特に三峰峠と、新道峠、白髪峠は牛馬での物の運搬が行われ、大日如来は牛の守り神を意識する道標としてそこに置かれたようである。争いのために、新道峠の牛の使用が一時禁止されたとの記録もある(御杖村教育委員会)。
ただ見逃せないのは、この稜線が中央構造線でもあることで、「地脈」などの言葉が鎌倉期から使われていることから考えれば、ここでも過去の人は断層信仰、災害信仰を意識していたと疑いたくなる。そもそも「牛の守り神」としての大日如来が、富士信仰と無関係であるのに、無視できないのは、文化人類学の分野では世界的な地震伝承レベルで、牛と地震の神話は多く見られ、牛は地震の神様と成り得るからである。
こう仮説を立てている。恐らく地震の多いインドや東南アジアで地震除けとして扱われていた牛は、神格を得るために大日如来と結びついた。描かれた牛と大日如来の絵解き図などは、地震を祈祷儀式でも厄災として扱わないほど地震の少なかった中国の仏教者には地震伝承とは理解されず、そのまま日本に渡った大日如来と牛の図は、江戸期に農耕に欠かせなかった牛の守り神として拡散したものと考えている。ただ日本でも、中国地方など、地震断層の集中する地域などに「大日如来、牛の守り神」伝承が残るような様子もみられ、その検討は今後の研究課題である。
写真10 竹原の浅間さんの横に寄せられた「牛の大日」
非常に古い記録だが、昭和五十七年(1982)の台風10号で被害を受けた美杉町(当時美杉村)の避難についての調査によると、その台風による三重県の死者は24人で、うち18人が美杉村に隣接する松阪市と嬉野町の住民だった。美杉村でも電力会社の職員が1人,作業中に崖崩れにあって死亡している。また、県内住宅全半壊174棟のうち131棟が美杉、松阪、嬉野の上記三市町村で、三市町村とも災害救助法の適用を受けた。
そうした大災害の中にあって美杉村は、物的には他の市町村に比肩するほどの被害を受けながらも,人的被害は前述のように最小限に留めた。台風によって多くの物的被害を受けたものの他の市町村にはみられない広域かつ大量の避難行動を美杉村は行なったと、調査は記している。
写真11 掛ノ脇浅間さんの川の弊
浅間さんを意識して、浅間祭りの済んだ頃、八月の美杉町を北の八知地区から入って車で走っていると、川べりやちょっとした高台に竹弊を見つけることができる。車からである。なにか別の国に来たような気分になる。ここでは山中を歩き、苦労して浅間さんの祠を探す必要はない。祭りという形式はほとんど消えてしまっているが、あちこちにその信仰は未だに残って引き継がれている。
それでも台風10号からは既に34年が経っている。その頃の雲出川なら、もっとたくさんの弊が立っていたに違いない。水垢離が済んだ浄衣を着た人を道端で見つけるのも、そう難しい話でなかったかもしれない。そして美杉の住民の心の中には、浅間さんが内包する災害の意識がもっと強く残っていたのだと思う。もう一度浅間さんに光が当たって、愛すべき美杉の住民の心に災害の意識が灯ればと考えている。
引用参考文献
・田川敏夫(元三重県教育長)「食行身禄の生涯」田川敏夫編著、1981年
・伊勢志摩国浅間信仰図「Vol 7、宮川 浅間堤」、2015年
・「美杉村史」 美杉村役場、1981年
・千木良雅弘「崩壊の場所―大規模崩壊の発生場所予測」近未来社、2007年
・是澤紀子(名古屋工業大学)「断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究」
首都大学東京都市環境科学研究科(総合都市研究第21号)、1984年
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