52 大王町波切のわらじ流し神事

#52

写真1 若者が大わらじを持って海に入る


 伊勢湾の入口、志摩半島の先端にある大王崎灯台で有名な大王町波切には、今も「わらじ流し」というダイダラ坊師伝承にまつわる神事が残る。この地は、地名が「波切」と言うほどで、過去から伊勢湾に侵入しようとする「津波を切る」防波堤の役目を果たしてきた。伝承によると、ダイダラボウシという巨人が海上から陸にあがって田畑を荒らして困るので、里にもお前より大きい巨人がいるぞというおどしのため大わらじを流すようになったという。言うまでもないが、ここではダイダラボウシは津波を意味し、この話はこの村が古い昔から津波災害を受けてきたことを伝承している。

 ダイダラ坊の話は、いわゆる巨人伝説だが、柳田国男によると、全国にダイダラボッチとかダイダラボウシという呼び方を共通して分布している。大きな足形に似た窪地を、ダイダラボッチの足跡だというような類である。なかでも、富士山はダイダラボウが近江の国から土を運んで作ったものとされ、その土を採った場所が琵琶湖であるという話は有名で、この話には、どこかの山はその土をこぼした時に出来た山であるなど派生的な話も加わって面白い。

 富士登山で山が荒れた時は、山の神の怒りに触れたとして「近江の近江の」と言って江州の土を撒けば鎮まるというまじないの話や、もっと面白いのは、その伝承を根拠に、富士から遠い近江の富士講参詣者は、本来なら出発地によって富士山麓で宿泊する坊が決まっていたのに、どこの坊にでも泊まることを許されたり、水垢離を免除されたりと優遇を受けていた。現在では、静岡の富士宮市と滋賀の近江八幡市は夫婦都市で結ばれ、近江八幡市長命寺町の湖水と富士山頂の霊水を交換する「お水取り」行事が行われている。


写真2 会場に置かれた大わらじと子供の記念写真が人気


 話がそれたが、わらじ流し行事は現在、「波切のわらじ祭り」として、毎年9月の申日に行われている。以前は旧暦8月申日だった。祭りは、前々日のわらじ作りから始まり、本祭当日は祭りの主催者の波切神社でわらじ曳き神事である。わらじ曳きとは、稚児に大きなわらじを引かせることで子供の立派な成長を祈願している。「曳く」という行為を、多人数で大漁網を引くことや、熊野花窟の御縄掛け、神宮のお木曳き、そして記紀神話の国引き等に比類して吉事としているところもあるようにも見える。巫女の踊りも加わって、昔は大きな舞台で多彩な芸能も行われていた。現在は本祭のあった週末に行われる、わらじ祭りイベントがその名残で、漁港会場のたくさんの出店や魚のつかみ取りなど、催し物は現代の風情である。

 波切神社の神主松生家に伝わる古文書には祭りの由来について、「当郷葦夜権現の祭祀は上古より長さ一丈の草履と、三斗三升の赤飯、これを大奥嶋に流す」とあり、「他の祭式は元禄十六年(1703)に仙遊寺の福州和尚が創作したもの」としている。葦夜権現とは波切神社の境内社である。その後祭りの存亡の危機は何度かあったものの、福州和尚のおかげで災害伝承は継続して伝えられている。


写真3 わらじの到着を待つ念仏婆さんと巫女


 午後三時過ぎ、波切神社を出たわらじは、神社の裏参道を降りて須場の浜に出る。後で波切の祝い歌、「エレワカ」(入れ和歌)を唄う念仏講中の七人の婆さんと巫女が先に待っている。念仏婆さんは、わらじを囲むように並んで座っている。わらじが到着すると、神撰を置き、お神酒がわらじにかけられ、宮司により祝詞の宣命と海上安全のお祓いがある。ここで、念仏婆さんのエレワカである。その後、わらじは海に出されるのだが、歌の内容がちょっと面白い。

〔囃〕アーヨイ コラコラ(二度)
〔唄〕エレ わかの浦舟 黄金の木来たに
   それはえーよ さまわうれしゅうや のせてきたえー
〔囃〕アーヨイ コラコラ(二度)
〔唄〕エレ コレノオウチハメデトウヤーロ
   それはえーよ 鶴と亀とが舞い遊ぶえー
   エレ 竹になりたや お山の竹に それはえーよ ※
   この家栄える のぼり竹えー
   エレ 三国一じゃー サアー 祝いとりましたー
   ソレ 三国一じゃー サアー 祝いとりましたー

 南伊勢地域の富士参りの唄を知っている方なら、もう気付かれただろう。※印の個所が、富士参り唄と同じ内容を歌っている。ちなみに旧南島町贄浦の浅間祭りで唄われる、浅間山賛歌の十七番を見ると。

 竹になりたや御山の竹に
 だんだん栄えるしるし竹

 特に伊勢志摩地域の富士信仰の特徴を示す、「竹」を扱う一節を共通することが興味を引く。この波切村でも、富士信仰が盛んだった影響だろうか。というより、もともと三斗三升の赤飯と一丈の草履を流すだけだったわらじ行事は、同じ災害を伝承する浅間祭りに成り掛かっていた祭りだったのかもしれない。そうしてみると、わらじを持ってはいるが、若者が海に入る動作は水垢離にも似ている。


写真4 老い岬から汗かき地蔵の境内に移されている波切の浅間さん


 波切漁港の北側にある老い岬の大松の下に奉られていた浅間さんの大日如来は場所を移されて、現在は桂昌寺前にある汗かき地蔵の階段を上り、社務所の左奥に進むと富士を眺める方角を向いて鎮座している。平成十六年にここに移されたと、社の横に立てられた石碑にある。

 以前の老いの大日如来台座には、「元文二丁巳(1737)、発願主山岡安太郎」とあり、もう一基の石碑には「寛延三年(1750)十月四日、法名性月宗圓信士西村徳右衛門六十才」と刻まれ、この二人が波切の富士講の創始者と考えられている。西村徳右衛門の方は、奈良市菩提山町にある真言宗当山派修験道先達三十六寺のひとつだった正暦寺宝蔵院に何度か足を運んでいる。正暦寺は江戸期には80以上の坊を構えた大寺院だった。

 また波切漁業協同組合には、掛け軸、総垢離行事要領、唱え、参り唄など、昭和四十一年まで波切富士講の先達を勤めていた小河熊男氏から行事の引継ぎを受け入れた時の記録が残っており、過去の富士講の様子が知れる。特に掛け軸は、宝永四年(1707)の日付が入り、村山浅間神社から頂上大日堂に至る富士登山の様子が木版で描かれて素晴らしい。


写真5 向こう面に「浅間神社」と刻まれ富士の方角を向く大里浜の石碑


 漁協にある「総垢離行事要領」には、大里浜での水垢離の行法も詳細に記されている。

一、旧五月二十七日、大里浅間神社石碑に同じ高さの松一本に、青竹二本を添え、三合さんの注連縄に海上安全大漁満足と書いた札を着けて石碑にしばる。
一、垢離場となる浜辺に、約三米の青竹二本を左右に立てる。
(中略)
一、旧五月二十八日午後二時頃、垢離をとる人は、脱衣、褌一本となる。先達の指揮にて大太鼓、その他の品を持って組合を出て垢離場に向かう。
一、先ず浅間神社碑に洗米、神酒を供えて、礼拝してから垢離場にいたる。まず組合長神酒をいただき、垢離を行ずる人も皆いただく。
(中略)
一、太鼓、法螺貝、鈴を打ち吹くうちに「ヨイヨイヨーイ」と発声しながら垢離をとっていく。即ち海水の中に入り、小石一個を拾って上がり、青竹のもとに置き、腰に挟んだ藁一本を竹の枝に結ぶ。
(中略)
一、夕方七時半頃より、昼間行事の場所にておたい(松火)をたきお婆さんらも集まり、富士参りの唄を輪になって謡い踊る。

 波切の浅間祭りは、垢離取り、踊りに火祭りの様相と、随分と盛大だったことが分かる。


写真6 こちらが心配になるくらい沖に出るわらじと若者


 わらじ祭りに戻るが、この後若者たちは、見えている船まで泳いでわらじを運ぶ。船はそのままわらじを引いて、方角的には南東、つまり津波のやってくる方角へわらじを流すようである。これまでわらじが戻ってきたことはないという。わらじが戻ってきたときは、津波がやってくる前兆とみて、警戒を強めなければならないか。


引用参考文献

・三重県高等学校社会科研究会「三重県の歴史散歩」山川出版社、1975年

・柳田国男「柳田国男全集6」筑摩書房、1989年

・郷土史会 吉永博「特別講座(水口の歴史)《近江甲賀の富士浅間信仰》」

 水口町立中央公民館、2000年

・秀森 典嶺ほか「大王町の年中行事」大王町教育委員会、1979年

・三重県教育委員会/編集「三重県の民俗芸能」三重県教育委員会、1994年

・荻野裕子「富士参りの歌ー伊勢志摩からの富士参詣」(近世民衆宗教と旅」

 法蔵館、2010年

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