50 阿曽浦浅間祭り
阿曽浦の浅間祭りは、この南島地域の浅間さんが、海と共にあることを改めて感じることができる。
晴天に恵まれた祭りの日、里の外浜は遠浅になっていて、海中を歩き踏みしめ、なるべく沖に出て垢離をとる。潮の流れが早ければ、流されてしまいそうである。若い男衆は大声で、ナムセンゲンと唱える。大勢の若者が祭りに参加する雰囲気は、方座浦の浅間祭りに通じるものがある。若い者も、先輩衆も等しく同じ海に入って、海に向かって手を合わせ、海からの洗礼を受ける。南伊勢町の阿曽浦で行われる浅間祭りの真骨頂は、この冒頭に行われる海での水垢離が大きな意味を持っている。
祭りは朝九時三十分からの予定と聞いていたが、着いてみると、すでに阿曽神社での祈祷祭事は済んで、水垢離も始まっていた。祈祷神事は、漁業一本のこの浦で、大漁祈願と漁業の安全を願う神事に変化したのは当然で、相当念入りに行われたようである。
水垢離から上がった若者たちは一旦休憩をして、浄衣を着替える。着替えている間にも、若者たちにはお神酒が配られる。見物する側はしばらく時間が空くが、それでも村の人たちは、炎天下でも既に阿曽神社の前にたくさん集まって、出てくる道者たちの霊験に授かろうとしている。待っている年寄りの中には、祭りに参加している自分の孫が、これを機会に酒飲みになってしまったらどうしようなど、素朴な会話をしている。
そうしているうちに、いよいよ道者たちは神社から堤防道路に出て、竹弊を担いで巡礼を始める。竹弊は堤防上の所々に運んで、そこに立て、柱立ての神事を行う。柱立ての所作は、方座浦と同様である。柱を立てて祭文を読むという動作の丁寧さは、村の方々が幣を立てることの意味を知り、これまでしっかり守ってきた証拠である。この浅間祭りは、津波からの逃げ場の限られた漁師町を守っている、堤防への堅守のまじないなのである。
一番若いこの二人の、ニコリともせず行列をまじめに先導して、社に到着してからのお供え事もそつ無くこなす姿と、その一方でアニメに出てきそうな不真面目な化粧とのギャップが、どうしてもお可笑しくて笑ってしまう。山に登ってくるにしても、体力に全く問題ないので、息ひとつ乱さずに清々と登る姿は本当の神の使いのようなのだが、顔の化粧はふざけている。
ようやく浅間山に到着して、ひとまずリラックスである。というより、高校生くらいに見える若者が多く、祭りを思い切り楽しんでいる姿が印象的である。この祭りでは年配者が目立たず裏方となっている。若者が運んできた幣を、社の両側に高々と掲げるのも年配者の役目である。そういえば、出発した阿曽神社の燈篭には、背丈ほどの笹竹に子の名前をしたためた札が付けられ供えられていたのを思い出す。この浅間祭りは、漁村の限られた人口の中で、次代の労働力となる若者を大切にお護りする祭りなのである。行列の間、ひとつも笑わなかった二人は、ちょっと稚児にしては大きいが、祭りの稚児お披露目の大切な場面を演ずる子供の役目だった。
この場面こそ大切なのだと、怖い先生から教えられたかのように、大日の社に一所懸命に念ずる姿が清々しい。これだけ若者が並ぶ浅間祭りなら、浅間さんも本望である。高台のこの場所からは、少し空いた木立の間から、外洋の素晴らしい景色が望める。標高は、40メートルはあるので、相当大きな津波からでも身を守れる。祭りには参加しないが、列に付いて行くように言われた小さな子供達も、言われた通りついて来ていて、厄除け霊験を授かる洗米を口にしている。
お許しを頂いて、社の大日如来の姿を拝見させて頂いた。比較的新しい石仏である。智拳印でもなく、胎蔵界定印でもない。説法印を結ぶ、大日如来である。そこには、空海も、修験も、富士講の教えからも逃れた、若者へ率直な心を語る純粋な姿しかない。それとも、大日如来の少し幼げな面影は、若者達そのものを神としているのだろうか。
海に面する村独特の細い路地にまで入り込んで、お神酒を配る。どの家の方々も顔を出してくれるし、玄関を開ければ、若い神様から酒をお酌されるので皆さん上機嫌である。今日は村上げての祭りである。街路というよりは、村全体が宴会場で、大家族の宴の中を酒を注ぎ歩く雰囲気である。
波止場から船に乗って、弁天島に向かう。詳細は不明だが、ここでは海の神様である弁才天は、気難しいのだろう。御機嫌を損ねては一大事なので、島に向かうのは道者限定である。いつもは、カメラマンは波止場までなのだが、今日の弁天さんは上機嫌だそうである。今回に限って弁天島の近くまで連れていって頂いた。
弁天島は小さいながら、れっきとした海に浮かぶ島である。社殿は朱塗りしてある。海上の弁才天と言えば、琵琶湖の竹生島や、神奈川の江ノ島・江島神社のように水の神である。ここでも、当然海難から阿曽浦の人々を守っている。昔は、ここにごちそうも並べられて酒宴を開き、太鼓を叩いて、踊りもしたとという。今日の今でも、若者達が大騒ぎしていることは変わっていない。
実は阿曽浦は、「里」と「浦」の二地区に分かれており、それぞれに浅間さんがある。ここまで書いてきたのは、「里」の浅間祭りの様子で、写真は、もう片方の、「浦」の浅間さんである。浅間山の山上にある智拳印の石仏二体は、海を見つめ、海の向こうからやってくる水難から村を守っている。正確に測ると、少し見えている堤防の左側には行者の祠があり、石仏二体は、真っ直ぐそれに向いている。頂上は海と村が見渡せるように、わざわざ木立が切り開らかれた、素晴らしい場所である。両地区の浅間祭りは、同時に行われていたので、こちらの「浦の浅間さん」には後日訪ねた。
浅間祭りの様子を聞くと、ちょうど同じころにこちらの浜でも垢離を取っていたという。海から上がると、堤防横の行者さんの祠に参り、竹の弊を持って堤防の上に立てるのも一緒である。そのあと浦の浅間山に登るのだが、こちらの浅間山の標高は80メートルと、里の浅間山の倍近くあるので、竹弊を持って上がるのには多少手こずるという。「浦」の方は、若い人の人口が里に比べて少ないので、祭りへの参加者も少ないそうである。
役行者の像は、先ほど述べたように、巨大な堤防の袂の祠にあって、堤防の看守を努めている。昔の石積みの堤防の当時から、同じ場所で同じように堤防を守ってきたそうである。御影石だろうか、すすで黒ずんでいる。硬質の石に繊細に彫刻された、立派な石仏である。基石には「大先達」と彫られている。この役行者を建立した大峰大先達の修験者が、浅間山に大日如来を据えたのだろうか。コンクリの祠で背中などを見れず、建立時期などは確認できなかった。
訪ねた朝は、7時過ぎだったが、既に線香が煙を上げていた。毎日お参りをする人がいるのである。お宅を訪ねてみると、女性の方が先輩女性から引き継いで、お世話をしているという。「行者さん」と呼んでいるが、その石仏が役行者であることはご存知なかった。大峰山を開いた人だと言ったら、「吉野の蔵王堂やね」と得心され、金剛峯寺に行かれたことはあるそうである。お参りは絶対に欠かさないという。信心深いのかどうか分からないが、微笑ましい。
この方のお仲間は、浅間山の沢奥で不動明王の石仏を見つけ、滝のそばで大切に奉っている。それをきっかけに、青峰山から始め、近畿の不動尊三十六ケ所を巡ってきたという。すっかりお不動さんのファンになられている。今後この石仏を里に降ろすかどうかを悩んでみえるようだが、不動明王は大日如来の変化(へんげ)と言って、浅間さんの大日如来とも繋がっていることをとても嬉しそうに説明されていた。さらに、お仲間からは、観音さんファンも現れて、この村は信仰のデパートの様相だった。
阿曽浦で最も古い寺である片山寺には、「延文三年(1358)、志摩」の銘の入った雲板(うんばん)が保存されている。雲板は、叩いて食事などの時を知らせる板である。この片山寺にも不動明王が奉ってあり、先ほど触れた、発見された不動の石仏は、昔この寺の方が彫ったものかもしれない。里の浅間さんにある灯籠には享保二十年(1735年)の号が彫られるし、神宮の領地を記した「神鳳抄」(1360)には、阿曽浦は神宮の御厨であったことが記されている。この阿曽浦は、普段外から人がやって来ることは少ないが、古い歴史を残す漁村なのである。
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