49 十二年に一度、土路浅間祭り

#49

写真1 綺麗な円錐形に仕上げられた富士山


 二十四年前に浅間神社の社の横に植えた松を、広場の真ん中に植え替えて、根元に富士型の土盛りをし、土盛りの表面に富士山が崩れないように芝生を植え付けている。と簡単に書いたが、朝8時に高蔵禅寺の住職にお経を上げて頂き、作業を始めて、その後もあれこれして、この段階で午後3時である。通常十二年前の松なのだが、二十四年前に二本植えていたので、今回はそのうち残った一本を植え替えることになった。つまり倍に育った松を植え替えるには、倍の重量になっていることも考慮に入れなくてはならなかった。もうとにかく苦労して、ここまでたどり着いたこと自体が、神事だった。筆者も綱を握って、根の未だ切れていない松を、皆と引っ張るお手伝いをしたが、さながらそれは、神宮のお木曳きのようで、村の男衆で協力して準備することに意味があったのだろう。出来上がった富士は、なおさら愛しく立派に見えた。


動画1 踊り手は女性のみで、夕方の7時前、まだ明るい時間から踊りだす。


 伊勢市東豊浜町土路の浅間さんでは、十二年に一度、富士登拝を行っていて、富士山の生まれた年、申年の今年がその年に当たった。上述したように松を植え替えて、その根元に土盛りを行って、広場の真ん中に頂上から太い松の生えた富士山を築き、代参で富士登拝を行う者たちの無事を祈って、夕方の登り始めに合わせて踊り始め、翌朝未明の下山まで唄い踊る。

 歌は典型的な富士講の道行唄、いわゆる道中歌である。唄も踊りも、伊勢湾に面する村である土路の夏の夕べに、非常によく似合う風情のある景色である。踊りは、祭りの当日までに何度も練習が行われた。役を努められた方々は、その度に遅くなっても浅間神社への祭事を続けられた。そして何より、男衆で大汗をかいて築いた富士山を中心に、踊りの輪が広がる情景が、なんとも心に迫るものがあった。この祭りは江戸期から続くというが、いかに伊勢の人たちが富士に憧れ、親しみを持っていたかを証明する文化遺産である。祭り当日は、各方面から取材の方々も大勢だった。


写真2 表舞台で男性が関与するのは歌の主体部のみ


 この祭りは、富士を登山する登拝者を、地元に残った者が踊りや歌で、彼らの帰りを待ちわびるという形式を取るのだが、その詳細は手作り感があり、それがまた祭りの変遷を語るし、愛着を深くさせている。


あさま やまから おふじをみれば
 ソリャセー ソリャセー
ふじの おやまに ゆーきもなや
 ショカイノー
 ヤレノーオ ゆきもなや
ふじの おやまに ゆーきもなや
 ショウガイノー
ハア・エイ・エイ・
      エイ・エーイイ

 歌の三番目、伊勢の鎮守山である朝熊山(あさまやま)から、富士を望んだ場面である。この歌がよく唄われた江戸時代には、朝熊山からなら日中でも富士を目視できる機会が多かったのだろう、「富士の頂に雪はないなぁ」という男性に、夏の登拝のシーズンなので、それは「しょうがないね」と女性が応えている。歌い手は、数人の男女である。男性が語って、女性はそれに応える、そんな掛け合いを永遠に続けていく。女性は、伊勢詣での「ええじゃないか」ではないが、すべてを「しょうがない」(仕方がない)で応えていく。この歌自体は御蔭参りの影響があるのかも知れない。

 踊り手は女性限定で、高齢化で見えなくなっているが、松というの木の選定はメイポールを意味して、若い男女の出会いを演出していたのか、それとも、その祭りの中心に鎮座する松は、富士火山の頂上にある噴火口から伸びているのであって、火をイメージし、火祭りの柱松、火を焚く松明を表しているのだろうか。そういえば、松の植え替えで掘った穴の土は、どこまでも真っ黒だった。大掛かりに松を植え替える作業について、登拝者を家族が待ちわびることになぞらえて、単純に、「松」を「待つ」と言い換えているという理由には、ちょっと無理があるようだ。

写真3 夜九時頃いったん休憩に入った後、深夜の十二時前に再び踊り始める


よしだ とおれば にかいからまねく
    ソリャセー  ソリャセー

 伊勢湾を船で渡った所にある三河の吉田宿は、飯盛女が多かったそうである。通りを歩くと、その二階から女の誘いを受けたという歌詞で、その内容も登拝者を励ましたり無事を祈ったりというよりは、「道行き唄」という題名そのままで、道中の様子を語る気楽さを表現している。この歌は本来、登拝者たちが道中でリラックスを誘う為に唄う歌であって、踊りと歌が目的としている登拝の励ましとはチグハグして少し可笑しくなってくる。

 また今では、富士にいる登拝者と地元が携帯などで連絡を取れるが、以前はそのような手段はないので、地元のペースで、踊りの休憩や、踊りをいったん区切る間合いの行事が、昔から伝わっていそうなものだが、小さなきっかけの動作などもなく、突然やってくる休憩には少しびっくりする。昔は一晩中踊っていたからかもしれないが、そのような大変なことの裏には、例えば、踊り手が二組に分かれていて、「前番」など、その当時に決めた組の名が残っているなど、何か工夫の形跡があってもよさそうなものである。そもそも富士の登山と、この地元での踊り行事は、どこか一体感がなく、元々別の行事だったもののようである。

 これまで本稿で取り上げてきた浅間祭り、古和浦、方座浦、贄浦、志島、立神などと同じように、当地域の浅間祭りは、富士の登拝とは別の目的を持った独立した祭りだと考えている。またさらに、この土路の祭りの様相を合わせて考えれば、伊勢志摩地方の富士信仰では、元々あった災害厄除の信仰の上に、江戸時代からの登拝信仰が習合したことがはっきり見えてくる。

  土路では、浅間祭りの前に、浅間神社の境内で、相撲をとっていたそうである。相撲もまた、力士が踏みしめることで、地中の邪を払い、土地の鎮めのために行われてきた、古くから続く災害厄除の儀式である。


写真4 隣村の西条にある瑞雲禅寺でも松の根元に富士山が造られている


 隣の西条も二日早い日程で、何人かが富士山に登っている。ここでも松の根元には新しい富士が砂で盛られていた。ただこちらでは、松の植え替えはなかったようである。根元に盛る富士だけが入れ替えられている。何年も植え替えはしてないようで、ずいぶんと立派な松になっている。松棚の伸び方が凄い。ここは瑞雲禅寺という寺なので、年末年始にどんど焼きをする必要がなく、松が年中境内の真ん中に幅をきかせていても問題ないようである。それとも、ふたつの村は元々火祭りを行っていて、その度に燃やす新しい松が必要になっていたと解することも出来る。火祭りを止めた西条は、松を松明とする必要がなくなったので、松は伸ばし放題となり、土路は新しい松を植え替える作法だけが残ったか。

 前々回取り上げた、富士山麓最大の御師町の山梨県富士吉田市で行われる祭りが、富士火山の鎮火を祈願する、大掛かりな火祭りであることは有名である。富士型の山を神輿にして町を練り歩き、町中が、火を噴く富士の姿をイメージした松明の炎に溢れる様子は、富士信仰最大の祭りといってよい。また、伊勢地域最大の浅間祭りだったと思われる堀坂山の浅間祭りにおいても、街を見下ろす標高757メートルの頂上に、赤々と炎が立ち上っていた様子が、市街地からでも鮮明に見えたという記憶は、現在の松阪市内の高齢の方々であっても古いものではない。

 現在の吉田の火祭りでも、富士山の登山道の途中にある各山小屋は、吉田市内の祭りの大松明に呼応して松明を上げているという。そう考えると、土路の土盛りの富士山は、昔は海岸に出て、砂浜の砂を盛って、そこに松を芯にして立てていたと伝わり、富士に憧れ、富士を普段から遠望していた土路の古い信者が、伊勢地域から富士の噴火に呼応した、鎮火を祈願する火祭りを行っていたとしても全く不思議ではない。


写真6 浅間祭りに先立って行われた夜間の神事。富士型の赤飯を備える。


 遠く富士へ出かけていた登山の様子はNHKで放送され、内容は若者の心機一転にスポットを当てた感動的なものだった。頂上からの素晴らしいご来光も、映像に映っていた。登山と地元の行事は別の行事だと書いたが、確かに儀式行事のルーツは別物だったが、富士に思いを寄せる気持ちは完全に合体している行事であることが伝わってきた。村の人たちが朝まで踊りを続けていたのは、現実に村の若者が、家族が、一歩一歩富士の土を踏みしめるのを応援していたのである。富士への思いがこの祭りを支え、その思いが家族や土路の村を一体にしていたことが分かった。

 十二年に一度しか巡ってこない申年の浅間神事。そして十二年に一度、土路の人たちがその思いを復活させ続けていること自体が、とても大変なことで、そのことにも深く感動した。富士山ファンとして、とても貴重で素晴らしい機会に誘って頂いた江崎満さんと、土路の方々、またご一緒した静岡からの方々、楽しい会話や親切な対応、本当にお礼を申し上げたい。


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