45 滋賀県甲賀 杣中浅間祭り

#45

写真1 大日如来の横で砂盛りの神事を行う


 富士信仰の集中する滋賀県甲賀でも、川で水垢離を行うことで富士登拝と同じ御利益が得られると言われ、ここ杣中でも、杣川に面した大日如来の場所から川に入り、「浅間大菩薩」と唱えながら水垢離を行っていた。だが、甲賀市史によると、それまで行ってきた水垢離は、昭和三十年(1955)以降の河岸改修により、その場所が失われたことから、砂を盛った修法を取り入れて、大日如来の横で始めたとある。また、それとは別に、今回の浅間祭りの参加者の、富永氏の亡祖父、富永作太郎氏の記録によると、河川が汚れてきたのを理由に沐浴を止め、別の潔斎場で潔斎を行ったとある。見る限り、確かに砂盛り行事には潔斎の要素は薄く、それまでも行われていた行事のように手が込んでいるので、水垢離は別の場所で行っていたが消失したのかもしれない。そもそも近江国は琵琶湖の土で富士山を作ったという伝承から、水垢離の短縮が認められ、そのうちに免除もされていた経緯から、それほど水垢離にこだわった様子がない。

 それでも、残された砂盛りの行事も興味深い。まず、浅間祭りの初日の朝に大日如来周辺の草刈清掃を行い、刈った草は小山にして燃やす。周辺には草を燃した跡があちこちに残る。杣中の方々は、昔から伝わっている通りで特に意味はないと仰るが、近くにある永昌寺で同じ頃に行われる「浅間山」(あさまやま)という行事に似ている。寺では、高さ一メートルを超える円錐状の小山に積んだ檜の葉を、大煙を伴って燃やしている。松阪の堀坂山でも頂上部の平地の草を刈り、大煙を上げて燃やしたと伝わる。それらは「虫送り」にも見える。

 杣中の砂盛りに戻るが、清掃の後は、すぐ横を流れ、杣川に注ぐ滝川沿いに生える竹を切り、忌み竹として大日如来の周囲と、横の小さな平地祭場の四至に立て、紙垂の下げられたしめ縄を張る。そして、以前は杣川の川砂を採って来ていたが、現在は買ってきた砂を盛り、榊に紙垂を付けて、砂盛りの中心に立てる。まず、これまでが準備である。


写真2 麦わら帽と檜傘、年季の入った錫杖


 そもそも、杣中の浅間祭りは、昭和三十五年に杣中老人会である養寿会が発足して以降は、毎年七月二十日以降の土用中(週)に、男子全員が富士垢離一週間の修行行っていた。その後、二泊三日となり、現在では宿泊なしで、二日間の行事を行っている。現在の日程は、前月六月の会合で会長が決められている。初日の朝、会員は八時に期間中だけ「富士浅間講道場 杣中養寿会」と看板が掲げられた八坂神社社務所に集まり、役割分担を決める。


平成二十八年度 杣中養寿会富士浅間講 役割分担表
本社祭壇 五名
導師 一名
宮守 二名
浅間塚 五名
事務係 二名
参拝予定時刻
第一日目 七月二十二日
浅間講 行始め
午前十時四十分
午後四時
交通安全祈願
午後七時三十分

第二日目 二十三日
各五社萬行祈願参拝
午前八時
区民健康・家内安全お祓い
午前十一時
食事 二十二日 昼食 当番二名、
        夕食 当番二名
   二十三日 昼食 当番三名
◎いずれも食事は ご飯と汁(即席味噌汁)は当番で準備願います。
◎料理は、小パックを例年通り予算の範囲内で注文します。


写真3 イザナミとスサノオの間に割って入る浅間大菩薩


 浅間講の祭壇は、八坂神社の本殿と摂社の間に幔幕が張られ、その前に設けられるが、古事記神話が火山文化をイメージしていると考えると、「富士浅間大菩薩」の掛け軸の両側に、それぞれの社の祭神イザナミとスサノウが鎮座することは意味深い。掛け軸の大書の横に、「月輪尊」。幔幕の前には白幣と祈願の塔婆が立てられるが、現在では、杣中の大日如来が幹線道路を背にしていることに合わせ、「交通安全」と書かれている。祭壇には三方の上に、キャベツとニンジン、ピーマンの野菜、煮干し、洗米、お神酒、祈願の書かれた小さな幣が数十本、その手前にはロウソクと線香立てが置かれている。榊の献花。さらにその外側にも、他の村人から供えられた献酒が並ぶ。結構賑やかである。


写真4 祭壇の前で祭文などを念入りに唱える


 午前十時、装束を固める。白の浄衣、数珠、金剛鈴、鉢巻き、藁草履、頭には檜笠、手には錫杖である。一同が祭壇の前に並び、会長から浅間講の始まりを述べる。続いて数えで六十となり今年老人会に参加を認められた者が宮守となり、修祓(しゅはつ)の祝詞、お神酒、浅間講の祝詞を奏上。拍子木で拍子をとり、般若心経を読む。玉串を供え、二礼二拍手。ロウソクが灯され、線香を献じるとほら貝が吹かれる。前年に宮守を勤めた者が導師となって祭文を唱える。

帰命頂礼 さんげーさんげー
六根清浄 大峯八大金剛童子
一心来拝 南無浅間大菩薩 南無浅間大菩薩

続いて、不動明王真言。

のうまく さんまんだ ばーざらだんせんだ
まーかろしゃーだ そわたや うんたらた かんまん

祭文と般若心経、不動明王真言はセットである。


写真5 いまひとつ統制がとれてないが八坂神社を出発である


 十時四十分。一同は八坂神社を出発。大日如来に向かう。道者の列は、導師の先導に合わせて祭文を唱える。辻々でほら貝が鳴らされる。
大日如来の富士塚に到着すると、もう一度、ほら貝を高々と吹き鳴らし、二礼二拍手一礼。祭文三度と般若心経、不動明王真言。洗米を口にしてお神酒を頂く。これを午後四時と、夜七時三十分にも行い、一日目を終える。


写真6 杣中の周囲は美しい田園が広がる


 二日目の朝八時、再び社務所に一同集まる。届けられた供え物の記録などに忙しい。社務所の中には、昭和四十二年(1967)からの浅間祭りの記念写真が掛けられている。供え物などの準備をすると、もう一度装束を固めて、八坂神社本殿の祭壇へ。昨日と同じ儀式を行い、本日は各五社萬行祈願参拝である。村内にある、小社を巡礼するのである。八坂神社を出ると、村内の集落の中を歩く。しばらく行くと、素晴らしく緑の深い水田が眼前に広がる。その田園の真ん中に通る畦を、まっすぐに進む。田園の真ん中にポツンと見えているのが、まず最初に参拝する若宮八幡である。

写真6 田んぼの真ん中にある若宮八幡社


 若宮八幡社は「八幡大菩薩」、愛宕社は「愛宕の大権現」、熊野社は「熊野の大権現」、野神は「御年の大神」を祀る。若宮八幡は、田園の真ん中にあり、山から出る水が導かれ、稲作に欠かせない水を奉っている。愛宕社や熊野社は、もともと北面の武士時代まで遡る城主のいた、杣中城内にあった社の基礎石などを奉っている。野神は土葬祭場を奉る神である。


写真7 大日如来には宝暦拾三年(1763)六月日の銘がある


 最後に大日如来の富士塚へ到着すると、大日如来の前で、五穀豊穣、交通安全、家内安全、その他村から寄せられた祈願を読み上げる。結構な数の祈願を読み上げるので、相当時間がかかる。石仏がある場所は、横を流れる滝川の堤防のように土塁で高くなっている。大日如来の真後ろに幹線道路が走り、始終車が通る。なるほど交通安全の祈願文は正解であると納得するが、神事に立ち会っていると、この空間だけが別の世界のようである。


写真8 富士をイメージする円錐の砂盛りに線香を挿す


 一段下がった平地に降りると、冒頭の砂盛りの儀式である。祭壇を設けて、お神酒を供える。さらにロウソクに灯明すると、竹筒に入れてきた御神水を富士型の砂盛りにかける。御神水は、垢離を取っていた杣川の水ではなく、八坂神社境内で汲んだ水である。八坂神社は、今は枯れているが雨乞い伝承を持つ「竜ケ井戸」のあった神社である。続いて、一人一人が火を入れた線香を砂盛りに刺し、二礼二拍手一礼し件の作法をしばらく行い、洗米、お神酒を口にする。富士型の砂盛りの上に煙を上げる線香が挿される光景は、竹取物語の最後に、不死の薬が富士山頂で燃やされることを連想させる。そして砂盛りは、たびたび洪水を起こした杣川の、鎮めを行っているのである。


写真9 杣川を見守る宇川の大日如来(伝江戸時代)


 杣中から3キロ程下流の、宇川にある浅間さんの大日如来である。杣川を見つめる体の、この石仏の据え置かれ方が、最も分かりやすい。杣川沿いに集中する浅間さんは、杣川の河川氾濫、洪水を鎮めている。

 杣川の「杣」(そま)とは、古代から中世に都造営のための木材を調達するために大和朝廷が定めた山林で、この甲賀では、その中心部を流れた川に付けられた名前が杣川だった。この杣中の近くにもその出先機関である工作所が置かれた記録がある。杣中は、杣川の中流域の村を指すことから付けられた名前である。

 甲賀の丘陵地帯に杣が設けられたのには、都である奈良に近いことと、険しい山でなく比較的平坦な土地に良材が多かったことからだと想像はつくが、もう一つは、この杣川が、頻繁に一気水(河川洪水)を出したことも大きい。以前述べたように、この地域は、数万年前の古琵琶湖の移動によって形成された粘土質の土地の上にあり、非常に水不足に悩んだ。一方で、一旦雨が降ると粘土質の親水性の悪い土地だったので、降った雨はすべて高度の低い杣川に集まり、大洪水を引き起こしていた。

 杣ではその一気水を利用して、多くの材木をこの土地から運び出すに際して、一定量を確保された材木は工作所に保管され、一気水を待ち、一気水が予想されれば川に並べられ、大洪水と共に下流へ流していたのである。言い換えれば、杣川流域に住んだ人々は、水不足に悩まされていた上に、頻繁に杣川の洪水に自らの家や農耕地を破壊され、苦しめられてもいたのである。杣川近くの金毘羅社の石碑にはこうある。

往古より当地区は杣川により度々水害を受け、これを防ぐため築堤工事をを行ったが再三決潰し、多大の被害を受けた。(中略)古くは、堤防決潰のたびに人柱を供した伝えられるが、後に人柱にかえて金毘羅神社祭礼に、各町内より手造りの人形が奉納されることになり、今に継承されている。


写真10 杣中の浅間さんの後ろ、県道4号線の向こうが杣川


 杣中の浅間さんの砂山は、京都の賀茂川沿いに位置する上賀茂神社の立砂が、賀茂川の氾濫の鎮めとなっているように、杣川の洪水を鎮めてきた。砂山にかけた聖水は、災害をも司る大自然の神である富士の湧水を思い描くように、山から伏流した竜の井戸から汲んだのであり、線香を砂山に挿したのは、もちろん竹取物語を意味してはいるが、水害で亡くなられた方への供養でもある。そして再三触れるが、円錐形の砂盛りは、他でもない富士山自体を表現している。



写真11 最後に宮司も揃って記念写真


 八坂神社に戻ると、宮司が待っていた。祭壇の前でもう一度、宮司を先導に二礼二拍手一礼。祭文三度と般若心経、不動明王真言。更に宮司の祝詞。宮司の般若心経は、伊勢方面の者から見ると新鮮である。最後の一同揃っての直会。お疲れ様でした。


 今回の祭りの日程など多数のご配慮を頂いた黄瀬会長、過去の資料など見せて頂きご助言頂いた富永氏など、杣中の皆様には大変お世話になり感謝いたします。



引用参考文献

・甲賀市史編纂委員会「甲賀市史」6巻、2007年

・保立道久「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年

・アレクサンドル・アレクセビッチ・ワノフスキー「火山と日本の神話」桃山堂、2016年

・「松阪 堀坂山」伊勢志摩国浅間信仰図(Vo.25)、2015年

・「志島浅間祭と上賀茂神社の立砂」伊勢志摩国浅間信仰図(Vo.41)、2016年

・「甲賀杣谷 古琵琶湖と干ばつ」伊勢志摩国浅間信仰図(Vo.32)、2016年

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