27 古墳と地震

#27

桧山路の浅間さん。古墳跡を崩さない配慮がみられる。

 写真は檜山路の浅間さんである。過去には祠をこんもりと覆っていた土は痩せてしまっているが、今でも古墳跡だったと思われる山陵を壊さないように石積が両翼へ広がっているのが分かる。さらに石は手前に回り込んで円を描いている。結界を引いているのではない。小規模であるが明らかに丸い丘墓を残そうとする意思がみられる。如来像を奉るだけなら方形積みの祠だけで構わない。そもそも礫浦の浅間さんは調査済みの古墳の上に奉られているし、船越、立神、宿浦、迫子、本浦などの浅間さんの形状も、これまで紹介してきたように椀型の陵墓跡を利用していると思われる。


 平安期、地震は「怪異」とされ、地震が起こると陰陽寮によって御卜(占い)が行われ、その結果では、地震御祈として山陵使が陵墓に派遣され鎮謝がなされたりした。中国を真似た律令制度が整い新しい政治が執り行われてはいたが、人の意識の中では前時代的感覚、竹取物語の最後富士の頂で燃やされたはずの感覚は引きずったままだった。地震は、天皇に起こる凶事、内乱挙兵、旱魃など、災いの前兆ともされた。また、微弱地震とも思われるが、陵墓が「鳴動」(めいどう)することも凶事の前触れとされ、続日本紀に大宝二年(702年)、

「震倭建命墓。遣使祭之」

とあり、伊勢国亀山(周辺)の地にあるヤマトタケルの墓が鳴動し、使いが出され祭祀が行われた。そしてその後何度も、陵墓の鳴動が報告される。ただ、陰陽道・卜占などは、そもそも地震の少ない中国の習慣をまねて導入されていたため、地震そのものの厄を払う祈祷というものがされるようになるのは、平安中期頃からである。

日本武尊御墓の再検証が待たれる

 734年には畿内七道地震が起こった。理科年表によるとマグネチュードは7とされ、続日本紀では、

「恐動山陵。宜遣諸王・真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓」

とあり、陵墓が鳴動する恐れがあるので、王族らを遣わせて陵墓8ヵ所などを調査させている。

 825年は、正月と二月と連続して京都で地震が起きている。立て続く京都有感地震の一部であるが、そのときは九州大宰府から、阿蘇のカルデラ湖「神霊池」の水位が60メートルも干上がったことが伝えられた。淳和天皇は、夜も寝れず、政治の間違いを天が戒めていると詔を出した。それを受け、7月には桓武天皇の墓稜に使いが出されている。

 827年、7月から京都で群発地震が始まった。7月12日の地震では、大きな地震1回、小さなものは7、8回起こった。理科年表によるとマグネチュードは7である。7月中は毎日起こり、8月、9月も続いた。10月、11月も収まらず、11月8日と、15日には、淳和天皇自らが、桓武天皇の墓稜の前で宣命を読んだ。

 翌828年も地震は治まらなかった。その翌年の829年には治まったが、830年に出羽国秋田城で大地震が起こった。マグネチュードは7.5である。そしてその年の歳の瀬12月、内裏に「物恠」(もののけ)が現れた。物恠の初見である。

 831年、その「もののけ」の正体が、桓武天皇と高志内親王の墓稜から現れたものと分かる。淳和天皇は再び、各墓稜の前で宣命を読んだ。

 833年、淳和天皇は退位する。度々の地震に見舞われ、その原因が父桓武天皇と前妻高志内親王の陵墓であるとされた淳和は、「遺体が墓に残っていると、それに鬼物がついて、祟りを起こす。自分の骨は砕き粉にして山の中にまき散らせ」と言い残した。

 838年、以前紹介した伊豆神津嶋の噴火がこの年である。十二人の童子が天から降りてきて次々に島に火をつけ、いくつも円墳状の神院ができたとされる。7月5日に噴火が始まる。7月20日には、大きな噴火があったと思われ、およそ300キロ離れた京都で「東方に音あり、太鼓を伐つがごとし」とある。内裏に「物恠」が現れ、はじめの噴火から6日後の11日には、桓武天皇陵で読経がなされた。

 神津嶋の詳細な状況を朝廷が知ったのは840年(承和7年)である。また同時に大宰府からも阿蘇の神霊池の水位が下がったと連絡があり、その十二月、仁明天皇はこれを「国異」として、とうとう伊勢大神宮に使いを出し詔した。詔は天皇の具体的な考えを述べることであり、通常の場合神宮には幣帛を奉ずることしか行われない。天皇の大きな危機感を読み取れるし、神宮にある潜在的な地鎮信仰を信じたのではないかと思われる。

 翌年841年、2月にはM6.5の信濃地震、5月に伊豆地震のM7などを受け、旱魃・挙兵などの災いが起こると占われた。天皇は5月に神功皇后の御陵に詔、天智、桓武天皇の御陵に宣命使を使わせ、伊勢神宮、賀茂神社に使者を送っている。

 文徳天皇(827-858)の時代は、その8年の在位期間に99回の地震が起こった。当時、文徳は地震に呪われた天皇だったと考えられていた。紹介するのは作り話ではあるが、当時の人の思考の一面を垣間見れるものである。文徳が32才という若さでの死後、その霊を弔うため陵墓の占定が大納言安倍安仁と陰陽師、滋岳川人によって行われた。当時の説話を集めた今昔物語集によると、二人が文徳の陵墓を作るための土地を決め地鎮祭を終えると、陰陽師である川人は、「地神」の集団が追いかけてきたと言い出す。その一部である。

然る間、日暮れぬれば、暗きまぎれに大納言も川人も馬より
下りて、馬をば前へ遣りてただ二人田の中に留りて、大納言を
すゑて其の上に田に刈り置きたる稲を取り積みて川人、
其の廻りをみそかに物を読み給ひつつ返し廻りて後、
川人も稲の中を引き開けてはひりて、大納言と語りてゐぬ。
大納言、川人が気色極めて騒ぎてわななき震ふを見るに、
なからは死ぬる心地す。かくて声もせずして居たる程に、
とばかりありて、千萬の人の足音して過ぐ。既に過ぎて
行きぬと聞きつる者ども、即ち返り来てもの云ひ騒ぐなるを聞けば、
人の声に似たりといへども、Oに人にはあらぬ声を以ていはく、
「此の者は此の程にこそ馬の足音は軽くなりつれ。
されば此の邊に集まりて、隙なく土一二尺が程を掘りて、
O求むべきなり。さりともえ遁れはてじ。川人は古の陰陽師に
劣らぬ奴なれば、OOOにて、え見えざるやうに構へたる。
さりとも奴をば失ひてむや、よくOOO。」とののしるなり。

 日暮れになり暗くなってきたところで、馬を先に歩かせておいて、川人は田の中で稲を積んで呪文を唱え、その中に二人は隠れた。大納言は震えている川人を見て、自分も死んだ心地である。そこへ千万の人の足音が過ぎ、また返ってくる。(地神の)人の声ではない声は、「馬の足音はこの辺で軽くなった、この辺りに居るはずだ、辺りを掘り返して探せ、川人は古の陰陽師に劣らない(技量があり)、見えないように隠れているのだ」、とののしった。

 この後、川人の術のおかげで大納言は地神の災いを乗り切るのだが、ここでは、文徳天皇にとり憑いていたと思われる地神、地震神が、文徳の霊を弔うための墓陵が作られることを阻止しようとしている。そして注目したいのは、その内容を庶民までが理解のできる状況にあったということである。もちろん地神が追いかけてくることはないのだが、当時の多くの人が地震と陵墓とを関連付けて考えていたわけである。



引用・参考文献

・山田雄司「怨霊・怪異・伊勢神宮」思文閣出版、2014年

・保立道久「歴史のなかの大地動乱・奈良平安の地震と天皇」岩波新書、2012年

・森田悌「続日本後紀(上)」講談社学術文庫、2010年

・福永武彦「今昔物語」筑摩書房、1991年

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