26 松阪・宝塚古墳
埴輪出土品としては国内第一級史料の「船形埴輪」である。前回紹介した宝塚古墳で、2000年までに行われた発掘調査で発見された。現在は「松阪市文化財センターはにわ館」で、実物を見ることが出来る。
日本神話で、天照大神は、葦原中国(地上世界)を治めさせるために、邇邇藝命(ニニギノミコト)を高天原から日向国の高千穂峰に天降(あまくだ)した。人気俳優が扮する坂本竜馬が、剣を抜き取って誓った場所である。これが天孫降臨の神話であるが、実はそれに先立って葦原中国に降っていた神が居た。それは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神で、その饒速日命が天から降ったときに乗ったのが、この天磐船(アメノイワフネ)という船である。この埴輪は古墳時代の人々がその神話の中の船を、どう具体的にイメージしていたかが克明に分かる重大な資料であり、大きさについても国内最大級で、このように完全な形で発見されたこともそれまでなく、学術的に非常に価値が高い。
船の前部には威厳を示す太刀、真ん中に王の持つ大小ふたつの杖、後部には権威を示す蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘が乗せられている。ここで特に注目したいのは、表面のくぼみに赤色の塗料(ベンガラ)が残っていたことである。この埴輪が作られたとき、それは火山の火のように赤く塗られていたとも想像ができる。日本書紀の中で、天磐船に乗った饒速日命は、こうも表現されている。
「有乘天磐船而飛降者」
(天磐船に乗って、飛び降ってきた者あり)
この埴輪は2006年、他の275点の埴輪とともに国の重要文化財に指定されている。
蓋(きぬがさ)は、古代の貴人の頭上に掲げられた日傘である。けれども、この写真に写るはにわの蓋はデフォルメされ、既に日傘の原型が分からなくなりそうである。いや、逆にいうと元の火山噴火のイメージに戻ったというべきだろうか。こう考えている。蓋は、もともと自然神の王である火山の象徴だったので、貴人の頭上に掲げられた。でなければ、日傘にこれほどのデフォルメが許された理由が見当たらない。屋外の祭祀で遠くから見る人も意識してデフォルメされていたとしたら、なおさら当時において火山の火は蓋を意味していたので、それは有効な効果だったと思われる。
上述した日本書紀に書かれた天孫降臨神話全体が、火山噴火に伴った情景の描写であるとも言われている。ニニギノミコトは、飛び交う溶岩石を避けるために、真床追衾(まことおうふすま)に包まれて降ろされたと考えられる。下記に記した續日本後紀の引用は、平安初期の承和5年(838年)7月、実際に朝廷に報告された伊豆諸島神津島の噴火の様子で、古代の火山文化を語るとても貴重で珍しい記録である。報告した人物は、見事に前時代的な表現を用いて克明に噴火の様子を記録している。
《卷九承和七年(八四〇)九月乙未【廿三】》○乙未。伊豆國言。賀茂郡有造作嶋。本名上津嶋。此嶋坐阿波神。是三嶋大社本后也。又坐物忌奈乃命。即前社御 子神也。新作神宮四院。石室二間。屋二間。闇室十三基。上津嶋本體。草木繁茂。東南北方巖峻〓〓。人船不到。纔西面有泊宿之濱。今咸燒崩。與海共成陸地并 沙濱二千許町。其嶋東北角有新造神院。其中有壟。高五百許丈。基周八百許丈。其形如伏鉢。東方片岸有階四重。青黄赤白色沙次第敷之。其上有一閣室。高四許 丈。次南海邊有二石室。各長十許丈。廣四許丈。高三許丈。其裏五色稜石。屏風立之。巖壁伐波。山川飛雲。其形微妙難名。其前懸夾纈軟障。即有美麗濱。以五 色沙成修。次南傍有一礒。如立屏風。其色三分之二悉金色矣。眩曜之状不可敢記。亦東南角有新造院。周垣二重以堊築固。各高二許丈。廣一許丈。南面有二門。 其中央有一壟。周六百許丈。高五百許丈。其南片岸有十二闇室。八基南面。四基西面。周各廿許丈。高十二許丈。其上階東有屋一基。瓷玉瓦形葺造之。長十許 丈。廣四許丈。高六許丈。其壁以白石立固。則南面有一戸。其西方有一屋。以黒瓦葺作之。其壁塗赤土。東面有一戸。院裏礫砂皆悉金色。又西北角有新作院。周 垣未究作。其中有二壟。基周各八百許丈。高六百許丈。其體如盆伏。南片岸有階二重。以白沙敷之。其頂平麗也。從北角至于未申角。長十二許里。廣五許里。皆 悉成沙濱。從戌亥角。至于丑寅角。八許里。廣五許里。同成沙濱。此二院。元是大海。又山岑有一院一門。其頂有如人坐形石。高十許丈。右手把劔。左手持桙。 其後有侍者。跪瞻貴主。其邊嵯峨不可通達。自餘雜物。燎焔未止。不能具注。
去承和五年七月五日夜出火。上津嶋左右海中 燒。炎如野火。十二童子相接取炬。下海附火。諸童子履潮如地。入地如水。震上大石。以火燒摧。炎煬達天。其状朦朧。所所焔飛。其間經旬。雨灰滿部。仍召集 諸祝刀禰等。卜求其祟云。阿波神者。三嶋大社本后。五子相生。而後后授賜冠位。我本后未預其色。因茲我殊示恠異。將預冠位。若禰宜祝等不申此祟者。出麁火 將亡禰宜等。國郡司不勞者。將亡國郡司。若成我所欲者。天下國郡平安。令産業豐登。今年七月十二日眇望彼嶋。雲烟覆四而。都不見状。漸比戻近。雲霧霽朗。 神作院岳等之類。露見其貌。斯乃神明之所感也。
伊豆諸島にある神津島(上津嶋)が噴火した。十二人の童子が松明を持って降りてきて、海に火をつけ、火は地のように海を覆って、水のように地面へ入っていった。大石を震わせて、火は天に達した。
火山噴火の後、島には新しく、神宮四院(院は建物のある一画)と石室二間、屋ニ間、閣(高殿)十三間が出現した。島の東北の隅に出来た神院は、高さが五百丈(約150m)で、周囲が八百丈(約240m)の、鉢を伏せたような形の壟(つか・高台)ができ、東方の端の海岸に四段の階(きざはし)があり、青・黄・赤・白色の砂が敷かれていて、その上に高さ四丈(12m)ほどの閣があった。
次に島の南の海岸には、それぞれ長さ十丈(30m)ほど、広さ四丈(12m)ほど、高さ三丈(9m)ほどの石室が二間出現している。また島の東南の隅には、それぞれ高さニ丈(6m)ほど、広さ一丈(3m)ほどの白土で築き固められた二重の垣で囲まれた一つの院が新たに出現している。
伊豆の大室山である。このように鉢伏状に形成された火山をスコリアと呼ぶ。大室山はその典型で、上記、續日本後紀の引用に出てきた「壟」(つか・高台)は、このスコリア火山を指していると考えられている。また、保立道久氏によると、当時の人は「火山神院」→「磐構へ作れる塚」→「古墳」というイメージ連鎖の中で神話的観念を維持していた可能性はきわめて高い、と言う。つまり、古墳は火山をイメージして造られているというのである。
神津嶋の文章は、最後にこう報告している。島の山の峰の頂上には、十丈(30m)の高さの石があり、その石が右手に剣を取り、左手に鉾を持った人物に見え、その後ろにいる従者は、ひざまずいて主人を見上げている、と語る。そしてその人物が今回の神津嶋の噴火を起こした火山神の阿波神と説明し、その神は階位を与えなければ国郡司を亡ぼし、尽力して願を成就すれば、天下郡司は平安で、産業を豊かにし、穀物を実らすとし、火山神の恐ろしさと、一方で平和で豊かな恵みを与えてくれる神だと語っている。
古墳期と縄文期を一緒に考えることは話が突拍子だが、芸術は爆発だ、で有名な縄文期の火焔式土器には、火山起源説もあるという。実際、火焔式土器が集中して発掘される信濃川中流域は、日本列島の中でも特に火山が集中する場所であり、また富士山周辺の縄文期の遺跡は明らかに富士山を意識した列石や列柱が確認されており、その後の人間の心理に火山が大きく影響を与えたことは間違いないようである。
最後に付け加えると、この宝塚古墳は、先に述べたように、三輪山から神島へ真東に至る有名な「信仰の太陽道」上にあるのだが、遺構に残った列石から復元された祭祀軸の方角については、1号墳は、太陽道の真東ではなく、伊豆火山群の方角を指すし、2号墳は、前方部は1号墳を向くものの、祭祀軸は真っ直ぐに富士山を指している。
引用・参考文献
・松阪市教育委員会「宝塚古墳」、2005年
・宇治谷孟「日本書紀(上)」講談社学術文庫、1988年
・保立道久「歴史の中の大地動乱」岩波新書、2012年
・森田悌「続日本後紀(上)」講談社学術文庫、2010年
・グーグル・アース図/クリエイティブコモンズ
・天野紀代子・澤登寛聡「富士山と日本人の心性」岩田書院、2007年
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