7 宮川・浅間堤

#7

写真1 宮川を守る浅間堰堤の突端にある稲荷社 


 伊勢市の西側を流れる一級河川、宮川。春になれば桜、夏は花火にたくさんの人が訪れる。

 外宮のそばに度会橋という橋がある。そこから少し川をさかのぼると、桃山から江戸期に造られた何本かの堤防が見られる。そのひとつが浅間堤で、写真は現在そこに祀られている稲荷社である。

 この堤は、暴れ川だった宮川の度重なる決壊に、自ら名乗り出て人柱となった松井孫衛門を祀った社で有名だが、今回はこのお稲荷さん、宮川茜稲荷神社と、この浅間堤についての話である。

  現在この堤防は広い宮川堰堤の中で、ひときは幹の太い古木を繁らす叢林の体で、真ん中に遊歩道を敷き整備されている。叢林の入り口の鳥居をくぐると早速、 松井孫衛門の社に参拝。浅間堤と名乗るので、浅間さんの祠があるものと勝手に決め込んで、辺りをキョロキョロしながら歩くが、それといったものはないようだ。奥へ進むと、くだんの稲荷社がある。緑の多い堤防の上で、ちょっと違和感がある鮮やかな赤で塗られている。稲荷だからである。大変失礼だったが、勝手に社の中身を確かめさせてもらう。れっきとした稲荷で、外宮の外縁にある豊川茜稲荷神社から勧請されたものとある。橋のなかった宮川を行き来するお伊勢参りの人々の、渡しの安全を祈願したという。

 ふたたび浅間さんを探すが、見当たらず、松井社に戻る。すると、先ほどは気がつかなかったが、「掃守社茜蹟」と彫られた碑があり、側面に

「明治四十弐年・・ 合祀於土社」とある。

  土社とは、伊勢神宮・外宮神域内にある、別宮である土宮のことをさす。なるほど、稲荷社が浅間さんと縁のある、土宮を取り込んでいるようである。ちなみに外宮にある土宮は、平安末期の1128年に、度重なった宮川の洪水による外宮の被害を憂いて、山田原の守護神を勧請し、外宮の別宮に加列したものである。神宮所管の125社の内、序列は三位で非常に重要な宮とされている。

写真2 外宮境内に有る別宮の土宮。  


 浅間さんを民俗的に扱った最初の書籍とされる、「志摩の民俗」(吉川弘文館)が伊勢國旧蹟聞書(1747)という古文書から一文を紹介している。

  「宮川の堤の上なる浅間の拝所といふものは、石川大隈守殿、御奉行の時、彼堤を築出して末代まで堤の堅固のためにとて、別宮の土宮を勧請の意にて、土ノ宮 拝所の石を建給ふなるを、後に富士垢離といふ事をする者、其堤の下に浴くして、東の方なる富士山を遥拝したるが、遂に是拝所と混じて、五十年来は祠の小さき物を造りたり」

 浅間堤の上にある拝所というものは、石川大隈守殿が(神宮領専属の山田奉行所で)御奉行の時に、この浅間堤が末代まで堅固であることを祈願して、(わざわざ神宮の)別宮の土宮を勧請したという意味で、土宮から石を持ってきて建てたものなのに、後から(富士山に登る清めの儀式である)富士垢離というものをやる者がやってきて、(川の)水に入って垢離をとったりして、そのうちに五十年も経つと、最後には自分達の富士山遥拝所と混同して祠を造った、と記している。

 「志摩の民俗」ではこの文書から、浅間堤は富士講以前の信仰要素を持っていたことを指摘し、その富士講以前の信仰要素を、「潔斎観念」という曖昧な結論に導いているが、この場合浅間堤は、素直に洪水災害から村を守る神様として扱われていたと考えて無理がない。

資料1 「宮川下流流跡図」 神宮文庫蔵書より


  暴れ川だったと紹介した宮川は、日本有数の多雨地帯である大台ケ原を水源とし、昔の伊勢市内は広範囲な三角州デルタ地帯となっていて、伊勢の平地部に数々の流跡を作り、平清盛や豊臣秀吉もその治水に参加したほどだった。宮川の堤が切れ、氾濫があれば洪水災害は間逃れず、洪水ごとに甚大な被害を出していた。冒頭で触れたように、人柱まで立てたほどで あり、想像よりかなりひどい状況だった。

 そのような状況のなかで、「浅間」と名のついた堤は、もちろん堤防の役目も果たしていたが、同時に村を洪水災害から鎮守して欲しいという人々の願いを受け止める、信仰的役割も担っていた。

 宮川茜稲荷に合祀された土宮は、もちろん石川大隈守が築社した土宮である。石川大隅守は山田奉行を寛永十八年(1641)から萬治二年(1659)まで務めた駿河出身の旗本で、その在任期間中の正保四年(1647)に浅間提は築造されたようである。

 昭和初期の文献で松井孫衛門の人柱の真偽や浅間堤の築年について疑問がでているが、人柱を残酷な行為という概念で考えると疑いたくもなるが、浅間提を富士信仰の聖地てある富士塚と考えれば、そこて行った行為は富士修験の風俗である断食入定という信仰の極まりでの行為と理解でき、肯定できるのではないだろうか。実際に神都である伊勢の町では、神宮参拝者を迎える立場だった都民が、逆に国外へ出る旅行として、富士登拝が非常に盛んだった。余りの流行にお上から富士講禁止の令も出たほどだった。


写真3 宮川河川敷の大日大権現社。富士の祭神である木花咲耶姫を祀る。


 松井孫衛門が富士信仰の信者だったことは確認できないが、すぐ上流の佐八は千眼寺(せんげんじ)や川原(せんげん)神社を中心に富士信仰のより厚かった場所でもある。反対に浅間堤から数百メートルの下流には、その松井孫衛門に習った「大日権現社」が富士の祭神コノハナサクヤヒメを祀っている。また王中島の浅間さんの大日如来なども、元は宮川河川敷にあったと聞く。宮川沿いの浅間さんの分布を考えれば、松井孫衛門が富士信仰の入定を意識していたと仮定しても、無理な想像ではないと思うのだかどうだろう。ここでは何より、宮川沿いには周防堤など他にも堤防があったのに、敢えて浅間堤で人柱として入定したことにも拘りたい。

 宇治山田市史(昭和三年・1929)には、浅間提にあった浅間社は、明治四十二年(1909)、近くにある辻久留の上社(かみのやしろ)に合祀されたとある。面白いことに、毎年五月の一か月間だけ社を建て、六月から翌年の四月までは社を撤去していたという。五月の一か月、間も無く梅雨の増水と台風の大水がやってくる。浅間社は堰堤を鎮守し、宮川の氾濫を鎮める祭祀を執り行っていたのである。



引用・参考文献

・伊勢志摩観光コンベンション機構「伊勢志摩きらり千選実行グループ」HP

・和歌森太郎編「志摩の民俗」吉川弘文社、1965年

・喜早清在「伊勢國旧蹟聞書」、1747年

・桜井龍彦「災害の民俗的イメージ」立命館大学歴史都市防災研究所、2005年

・「宮川下流流跡図」神宮文庫蔵書

・一般社団法人 農業農村整備情報総合センターホームページ『水土の礎』

・山田奉行所記念館「山田奉行一覧」伊勢市HP

・宇治山田市編「宇治山田市史」、1929年

・松杉生、松木時彦「神都百物語」文明堂書店他、1928年

0コメント

  • 1000 / 1000