6 大王町船越 津波避難所

#6

 少女は、早起きしたので日の出を写メしようとしたのだが、寝ぼけて、向こう(西側)の浜で待っていたと、笑顔で話してくれた。今朝は素晴らしい日の出だった。

 大王町の船越は、先志摩半島の付け根が狭まっている部分で、前浜(東側)と、浦(西側)の両側に海が迫っており、土地も低く、津波には非常に不利な地形である。

 海に浮かぶ三つの大岩は、三島山と呼ぶ。その向こうに見えているのが、大王崎灯台である。

  角川日本地名大辞典によると船越について、「古くは大津波(おおつば)村と称したが、津波に字が通じ、事実しばしば津波に見舞われて流失家屋も多かったの で、村名を改めたという。地名の由来は、南の海から、北側の海に船を運んだことにちなむという。また、度会郡にも船越の地名があり、中世には、度会の船越 を南船越、当地を東船越と称している」、とある。


黄色表示が津波避難所と重複する浅間さん(GoogleMaps)


 浅間さんが一番数多く分布するのが、志摩・南伊勢の外洋に面する地域である。さらにそれらをよく調べると、海に面した村、各浦の浅間さんの多くが、現在、志摩市、南伊勢市が指定している津波の一時避難場所と重複していることが分かる。

  浅間山は200mを越す山もあり、それらでも、中腹やふもとのその山の遥拝所、登り口にある里宮の跡が、地域指定の一時避難所と重なっている場合が多い。地域の小高い場所にある浅間さんは、もともと津波避難を想定して据えられたと考えられる。重ならないものは、浅間信仰そのものが廃れ、地域の氏神と合祀されて場所が移ってしまったものが多いと思われる。

 また、津波の一時避難所は行政が図って場所を指定しているのではなく、自治会など、地域住民が直接選んだものを市が指定している。地域の実情に応じた判断を、住民に任せているのである。この場合、選定した住民自身が、過去からの言い伝えなどで浅間山を津波の避難場所として意識 している場合も多いことから、浅間さんと避難所が同調する結果になったとも考えられる。漁港や浜には、たいてい両端に寺か浅間山があり、それらがこの土地を守っているというこの地の老人も多い。

 船越の浅間さんは虚空蔵堂の裏山にある。この虚空蔵堂も、江戸期に朝熊山の修験者に伝えられた洪水信仰によって祭神が虚空蔵菩薩に変わっているが、過去には浅間山と一体となり、祭神を浅間大菩薩とし、登り口、かつその遥拝所として機能していたと思われる。奥にある草むらとなっている石段が、かつての登り口である。


 志摩市教育委員会がまとめた安政東海地震(1854)に関する古文書の中で、志摩・船越村の住民、中村伊十郎が書き残した「地震津浪之始末記」に、こうある。

 「地震静になりしゆえ 銘々火の用心のため我が家々に入りけるが 間もなく前浜の汐満ちきたりし体 扨こそ高汐満ち来るやらんと浜辺に逃げ居る人々 南は寺の上 行者山 または八幡山へ登り 北は堂の上 浅間山 経墓山へ逃げ登り」、とある。

  地震が収まったので、めいめいが火の用心の為に家に入ったが、(船越村は前と後ろが海に面していて)前浜が満ちてきた様子だったのが、それこそやはり高潮が満ちてくるといって、浜辺で逃げる人は、南の寺の上や行者山、八幡山に登った。北の方は浅間山、経墓山に逃げ登った、という。(経墓山は、経塚山の間違いと思われる)

 この文章からも、浅間山は過去から津波から逃げる場所として人々に認識され、実際に機能してきた様子がうかがえるのである。


参考文献

・角川書店「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1978年

・志摩市防災ハザードマップ(平成25年3月)

・南伊勢町津波ハザードマップ

・志摩市教育委員会「安政東海地震と津波の遺訓」志摩市教育委員会、2007年

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