5 方座浦浅間祭 下

#5

 祭りの前夜祭であるヨミヤ(宵宮)では、浦の中心である港の広場で祭衆たちが円になり踊る。そしてヨミヤの最後は空高く花火が打ち上げられる。皆で浅間さんを祀り、地震や津波で亡くなった人たちの霊を弔っているのである。平安期の貞観には地震や疫病・飢饉が起こり、それが京都御霊会(ごりょうえ)や祇園祭の起源となっているし、江戸期の享保の大飢饉は隅田川の花火、天明の大飢饉は仙台の七夕祭りの起源となっており、夏祭りの起源は災害といわれる。そして、それらと同じように浅間祭もやはり、過去に起きた津波災害を起源とする祭りと思われるのである。


 慰霊することで、悪神(厄神)は善神(福神)に転化し、守護神となるという。火山である富士山を過去には浅間山と呼んだ。 浅間山(火山)こそ、地震を起こし津波で人々の命を奪った悪神に違いなかった。残された者たちは亡くなった者を慰霊し、悪神である浅間山を地震鎮めの善神に転化し、守護神としたのである。大津波の被害を何度も受けた志摩・南伊勢地域の人々は、浦々で津波からの守り神として浅間さんを祭祀した。

 ヨミヤ(宵山)の最中祭衆たちは酒を飲み、酔って神懸りとなる。そして翌日のホンピ(本祭)には、神となって祭りを執り行う。

  古事記のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの話を引用して、顔にオシロイの化粧しているのは、古事記の逸話を江戸期の国学が伝えたと考えられる。江戸期には 南海トラフ地震が三度も発生し、志摩・南伊勢地域も津波により甚大な被害が出ている。改めて祭りの儀式様式が見直されたのだろう。

 時代を遡って江戸初期には、富士に登る登拝信仰である村山修験富士講も盛んになっていたので、浅間さんに習合したと考えられる。明和4年(1767年)の「頂上浅間大神」のお札が残っている。同じ富士を対象とした信仰だったので簡単に同化しただろう。

 祭衆らがタスキ掛けにする数珠や、垢離取り、浅間山への崖、女人禁制などは元々の大峰修験道の影響である。

 また浅間山の祠には、天照大神の神体である鏡が安置されている。そして幣の頂点には、神宮の別社で志摩地域全体の氏神である伊雑宮で行われている田植え祭りの翳(サシバ・扇)と同じ日の丸と松が掲げられている。それらを見ると神宮の影響を感じ、幣は天岩戸の神話に現れる、勾玉、鏡、ぬさで飾られた真坂樹(榊)にも見えてくる。

 方座浦浅間山等については、荻野裕子氏の小型富士としての研究があり、富士に似た山容から「ふるさと富士」とされるものや、富士講に由来する富士・富士塚と区別した調査を行っている。それらは、主に修験道との繋がりをテーマとするもので、村山修験、伊豆修験、本山派、真言宗系などの文献的資料をもとに究明に当たっている成果は顕著である。特に伊豆修験との関係に言及されている点に注目したい。更に氏は、伊豆半島から紀州沿岸に至る信仰分布も確認されており、本文でもそれらを基に考察を進めたい。ただ、時代を現在から遡る方法では、近世以前の文献的資料の少なさから、それ以前の信仰起源に繋がる論証が難しく、信仰の源泉となるものを「災害信仰」と仮説を立てることで、仮説に近い資料を収集し考察を進めたい。災害については、第一回、第二回でも触れたように、伊勢志摩地域の災害特性は特徴的であり、その特徴と信仰分布の重なりを述べることである程度の成果を導き出せるのではないかと考える。

 最初に取材を行ったのが、この方座浦浅間祭りだったのが幸運だったのではないだろうか。特に幣の扱いに関する着目は、今後の考察の大きな部分を占める課題となると思われる。方座浦は、湾の両岸の山が高く典型的に津波被害が大きい地形を有していること、平地が少なく農耕による水不足旱魃災害に比較的関係が薄いこと、文化的には過去に隣の浦に神宮の吉津御厨があって神宮の文化やそれ以前の伊勢文化が近かったことなど、津波災害に起因する信仰が醸成された可能性が大きい土地柄であり、一方で伊勢文化に近いものの道路整備以前は陸の孤島的な場所で伝承が残りやすい環境だったとも考えられ、調査課題として非常に重要な場所であると思われる。

 この祭りは、様々な信仰の影響を受けながら伝承されてきたものであるが、何より今ではその意味すら認識されていないものの、津波災害の教訓を残している可能性のある非常に稀有な民俗祭事であることが重要である。これは上述したように長年交通が不便だった地理的な要因があったからだろう。他所からの文 化的な影響が比較的少なかったことが大きい。そして津波被害が多く、その被害が甚大だったことも物語っている。

  現在も東日本大震災後、津波被害の教訓をどう伝承していくかが議論されている。宮城県女川町では、「津波伝承 女川復幸男」という祭りを、一から企画し震災後から毎年開催している。「津波が来たら高台に逃げる」、このことだけを伝承させ続けるためだという。この浅間祭りも、もともとはそのような教訓を伝えるための祭りだったのではないのだろうか。

 方座浦浅間祭りは、内実は存続が議論されており、今年は町の無形文化財に指定し、映像を保存するために収録会社を雇った。祭りと信仰理念の伝承を、是非続けて欲しい。幸運なことに、浅間祭りはいまだに十分な人数で継続できる余力のある祭りである。過疎化が叫ばれる漁村の方程式はこの浦には当てはまらない。祭自体が持つ魅力だろうか、祭りに参加する若者の数は全国の地元祭事を圧倒する人数である。浦を大切に思う気持ち、先人・先祖を思う気持ち、現業漁業を大切に思う気持ち。そして、家族を大切に思う気持ち無しには、この伝承力は成り立たない。

 地元大好き人間万歳!幣を山に上げるときの一体感など、この祭りの心意気が若者をこの地に留めているとも言える。何とか祭りが続けられることを願って止まない。



参考文献

・溝口睦子「アマテラスの誕生」岩波書店、2009年

・谷川健一「日本の神々」岩波書店、1999年

・岡田精司「神社の古代史」学生社、2011年

・筑紫申真「アマテラスの誕生」角川書店、1962年

・松前健「日本の神々」中央公論社、1974年

・穂積裕昌「伊勢神宮の考古学」雄山閣、2013年

・大林太良「神話の話」講談社学術文庫、1979年

・藤長庚編集 / 神谷昌志著「遠江古蹟図絵」、1991年

・竹田恒泰「現代語古事記決定版」学研パブリッシング、2011年

・野本寛一「自然災害と民俗」森話社、2013年

・三重県「三重県史 別編民俗」三重県、2012年

・和歌森太郎編「志摩の民俗」吉川弘文社、1965年

・黒田日出男「龍の棲む日本」岩波書店、2003年

・江崎満「伊勢志摩の富士信仰を訪ねて」鳥羽郷土史会、2014年

・「伊勢民俗33、34、43号」伊勢民俗学会、2014年他

・石原義剛「熊野灘を歩く」風媒社、2007年

・南伊勢町観光協会「海と出会う山の道」南伊勢町、2011年

・桜井龍彦「災害の民俗的イメージ」立命館大学歴史都市防災研究所、2005年

・新田義人「舞!組曲・浅間祭り方座浦、古和浦」HP、2010年

・伊勢志摩観光コンベンション機構「伊勢志摩きらり千選実行グループ」HP

・清水初由(元南島町助役・元贄浦(ニエウラ)浅間さん幹事)

 「浅間さんの日の丸扇子」表裏に浅間山讃歌の全文記録

・日本経済新聞「隅田川花火・仙台七夕・・・夏祭りの起源は災害、鎮魂担う」、2011年6月23日

・荻野裕子「南島町方座浦の浅間山-紀伊半島の小型富士調査に向けて」富士山文化研究、2005年

・同「西伊豆、もうひとつの富士の姉山―小型富士の信仰形態 小下田浅間山の場合」

 (中部民俗論)静岡県民俗学会、2006年

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