3 方座浦浅間祭 上

#3

 

 伊勢・志摩・南伊勢の沿岸には、”浅間山”、または”浅間さん”と呼ばれる祠が集中して分布している。富士信仰と言われるが、そうとは言い切れず、また残された資料も非常に少なく歴史や縁起といったものは不明なままである。

 浅間といえば富士山、火山の別名である。東日本大震災の記憶は 未だ鮮明であるし、昨年から御嶽山、箱根、口永良部島と立て続けに火山が活発化しているが、日本列島はもともと火山列島といわれるほど火山、地震が多い。

  特に伊勢志摩地域は、有史以前から南海トラフ を震源とする大地震が約150年毎に起こり、そのたびに大津波による被害を受けている。家屋などの物的損失も大きかっただろうし、人命の損失も甚大であったに違いない。伊勢志摩地域には、火山と地震、津波災害の連鎖を意識せざるを得ない地域性があったといえる。浅間さんには、津波など災害となんらかの関連性を感じる。

  一方この地域には、日輪を模したアワと呼ばれる輪を空中に持ち上げる神島のゲーター祭り、松明を夜の空高く掲げる加茂地区五郷の火祭りなど太陽を主体とした祭りが多い。

 前回紹介した「伊勢の二等辺三角形」の頂点にある二見輿玉神社では、6月の夏至の日、信者が海に入り二見浦にある夫婦岩と呼ばれる大岩の門から、海の向こうに遠望する富士の頂上に昇る日の出を拝し、太陽と富士を敬う儀式が行われている。

 浅間さんにはそれらの素朴な太陽信仰との関係も伺わせる面があるように思われる。

 夏至の日から半月経った7月11日。浅間祭りホンピ(本日)が行われた南伊勢の方座浦を訪ねた。

 祭りの主役である神宝は二つあり、ひとつは大弊(オーヘイ)、もうひとつは小弊(コヘイ) という。大幣、小幣ともに7、 8メートルの高さがある太い竹竿の先端の枝に無数の日の丸扇子。中間に馬の毛のようなひだが付いている。弊を立てたままの状態で四方から綱を伸ばし祭衆が 支えながら町中を練り歩く。
 漁業組合の座敷に祀られるシゲ(木祠)の前で浅間踊りを踊った後、祭衆は建物から出て幣を進めた。進む毎に一定の 間隔で先導役が場所を決め、神宝である幣の根元を地面に置く。祭衆の神男(弊持ち)は前日にくじで選ばれているが、弊は太く重いので運ぶのには相当な苦労 をしているようだ。 京都の祇園祭などで曳く鉾のように、通常重く長い竿状の神宝などを運ぶ場合、山車などを運搬手段として使う。しかしこの方座浦の弊の場合、あえて車などに は乗せず、人力で持ち上げて運んでいる。つまり弊の根本を度々地面に置くことを前提としているようだ。

 幣は町中を隈なく練り歩き、町の人は自分の家の近くに幣の根元を置いて欲しいとねだるような面持ちで待ち、幣が置かれると、待ちわびた人たちは願をかけるようにお神酒を注ぐ。幣を運ぶ祭衆達にも感謝の意味で酒が振舞われる。

 祭りの棟梁らしい方に尋ねると、町中に電線があるので一旦傾けた幣を立て直すために地面に置いている。神宝である幣を地面に置くので清めているだけだというが、これは地震の鎮め儀式を行っているのではないだろうか。

 村の人は幣の根元にお神酒を注ぐ慣例は昔から行っている決め事といい、先導役が幣を置く場所を電線に関わらず決めたり、神具であるわらじでその場所を特定させている動作を無意識に行っているのを何度も見た。先導役は、村の区画に基づいた間隔で、幣を村中に漏れなく置いていっているようである。

 ごく近年のことである電柱避けのせいで地面に置かれた幣の穢れを清めるため、わざわざ、お神酒を供える動作を、昔からの神事のように行っているとは考えにくい。幣を地面に置く事自体が、この祭りの重要な要素となっていると思われ、その重要な動作に対してお神酒を注いでいると考えた方がよいのではないだろうか。鎌倉期には、日本を取り巻くように一周した龍の頭と尾を要石の剣で貫いている図が描かれた。地震を起こす龍を押さえつけているのである。幣はその要石の剣のような役割を果たしていると思われる。

 その年新築された家には特別に敷地内に幣が入り、玄関に据えられた。祭衆はしばらくそこに留まり家の中に入って、浅間さんの踊りを念入りに踊った。踊りの唄はよく聞き取れなかったが、贄浦(ニエウラ)の方に頂いた踊り唄を書き込んだ扇子には「大井川には水もない」と、津波前の引き潮を連想させる一説があった。やはり津波を意識させる。

 家の中で踊った祭衆には、酒や食事が用意された。祭衆は大騒ぎである。祭衆の騒ぎは、厄払を行っているようである。


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