2 伊勢の二等辺三角形

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 伊勢神宮の外宮・内宮と、二見浦の夫婦岩を結ぶと二等辺三角形になる。そして、その二等辺三角形は、真っ直ぐに富士山を指している。神宮には三角形の記録は見当たらないが、伊勢神宮ができる以前からこの地にいた度会氏が、二等辺三角形を描いたと思われる。夏至の日に二見浦からは、 200キロ先の富士の頂上に太陽が昇るのが見えた。

 伊勢神宮では江戸時代まで、内宮は荒木田氏、外宮は度会氏が、神宮の祭祀実務を司る役職である禰宜(ネギ)を勤めていたが、当初は両宮とも度会氏が神事を行っていたと考えられている。もともと神宮が度会氏の祭祀地であったことは、岡田精司氏の論に詳しいが、度会氏の守護神は現在の外宮の北にある度会国御神社であり、そこが底辺角のひとつであると考えられる。

 

 もう一角は、内宮神域で神宮司庁の側にある大山祇神社である。前回紹介したが津波で崩壊した二見浦の輿玉神石と、外宮神域の度会国御神社の、二点を起点に計られたのではないだろうか。五十鈴川中流の朝熊山の麓が、二等辺三角形を描くのには好都合である。伊豆の三宅島などの火山を鎮めていた三島神を、大山祇神社として奉じたと思われる。また、現在の富士山本宮浅間神社がある場所には、もともと地主神として富知神社があったとされ、その祭神は大山祇命である。大山祇命は、今の富士山の主祭神コノハナサクヤヒメの父になり、コノハナサクヤヒメ自体は、隣に子安神社を作り、そこに祀った。

 元旦の朝、内宮神域に渡る宇治橋の鳥居の上に初日が昇る。その方角に40メートルほど行ったところが大山祇神社なのだが、当初のプレ内宮の敷地はそれだけのもので、現在に比べ大変小規模なものだったと思われる。社殿もなく、ひもろぎか祠のようなものだけだっただろう。

 輿玉神石を頂点角に、度会国御神社と大山祇神社の底辺角で二等辺三角形は描かれ た。度会国御神社と大山祇神社には、信州諏訪の諏訪大社のような十数メート ルの高さのある御柱が数本立っていたかのかもしれない。三角形で、富士の噴火を地鎮していたとも考えられる。さらに神宮の三角形は、伊勢の地にとって鬼門となる方角の北東に対して結界ともなっていた。奈良の耳成山・天香具山・畝傍山や、関東の鹿島神宮・香 取神宮・鳥栖神社など、二等辺三角形で結ばれている信仰の地は多い。 ほど近い、熊野三社も同様である。よく見ると諏訪大社は、元火山だった蓼科山と横岳を、各二点で護っているようにも見えている。

 位置の正確さを追究するならば、度会国御神社、大山祇神社とも、元あった場所の特定は難しい。だがグーグル図を見る限り、 外宮・内宮、それぞれの神域が二等辺三角形の底辺角となっているのはほぼ間違いない。偶然を問う意見への返答として、グーグル図にも示したが、富士を指す直線を、瀧原宮・度会国御神社の直線が平行して補完していることも付け加えておきたい。

 先にも述べたが、伊勢の平野は宮川の氾濫による度々の洪水、山間地は山崩れが襲った。一方で平時には宮川などは逆に水位が低く干ばつに悩まされていた。また伊勢志摩国の南部沿岸地域は津波によって一度に沢山の人命が奪われていた。災害と共に生きていた伊勢の人々は、自然信仰に強いこだわりを持っていた。伊勢国の度会氏は、遠くに見えた他を圧する存在感を示す富士を、後に浅間(センゲン)神と呼ばれる自然由来の神として信奉していたに違いない。大和から天照大神がやってくるのは、まだ先の話である。

 自然は突然に神的な風景を見せるときもある。


引用・参考文献

・岡田精司「新編 神社の古代史」学生社、2011年

・岡田精司 「古代王権の祭祀と神話」塙書房、1970年

・筑紫申真「アマテラスの誕生」角川書店、1962年

・内田一成「レイラインハンター」アールズ出版、2010年

・式内社研究会 編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』皇學館大学出版部、1990年

・谷川健一「日本の神々」岩波書店、1999年

・井上章一「伊勢神宮 魅惑の日本建築」講談社、2009年

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