66 鳥羽市神島 ゲーター祭


 神島に住む友人から連絡を受けました。元旦未明に行ってきた島で最も神聖な祭事であるゲーター祭りが中止になったとのことでした。

 神島は伊勢湾入り口、伊良湖水道の真ん中に位置する離島で、古墳期の鏡が発見され神宮にも近いことから、畿内と東日本をつなぐ海上交通を鎮守する祭祀地だったとも考えられています。江戸時代には一時鳥羽藩の流刑地なるなど様々な歴史を経ていますが、私には伝統的に漁業を生業としている神島の住民は、一年を通した祭事を生活の一部としていて、その姿は古い時代の生き方をそのまま映しているようにも見えました。その核となっていたゲーター祭りを中止にすることは、住民の方々にとっても苦渋の決断だったと思われます。



 神島には2016年の夏に静岡県の先生方や江崎さんと一緒に調査に行っていますが、その時には個人のお宅から富士講覚帳と、富士登山に出発する際に使った船の大漁旗、薬師堂からは富士山の絵柄が刻まれた柄鏡が見つかっています。柄鏡は恐らく19世紀後半に量産されたものの一つで、工芸的価値というより神島の薬師堂で見つかったことに意味があると思います。神島ではこの堂に富士講の道者が集まって祭事が行われていたのではないでしょうか。



 またその調査の際に薬師堂からは、滋賀県甲賀にあった飯道寺梅本院が配った大峰山の御札(嘉永四年・1851)も見つかっていて、富士信仰の広がりを知る大きな手掛かりとなりました。甲賀市の飯道寺は現在は廃寺になっているものの、中世からの修験寺で所属した修験者は全国に広がり、大峰山修験道を管轄する有力寺院の一つでした。常滑市とこなめ陶の森資料館所蔵谷川家文書によれば、尾張国知多郡大谷村富士講講元の甚左衛門は、修験道当山派の梅本院(飯道寺)より文化七年(1810)に先立号の免許を受けていることが分かっています。富士山麓にあった村山浅間神社の修験者も当山派に属していましたし、奈良市瓦町富士講山上講の一体式祭壇を典型として富士山以西の富士講の多くは大峰信仰を伝える行者講(山上講)と一体となっている例が多く見られます。飯道寺の修験者の一部は、伊勢神宮の鬼門を護る寺として有名な朝熊山金剛證寺明王堂に属していたことも分かっていますので、当時神島の直ぐ側でもある金剛證寺から飯道寺の修験者が大峰山や富士山への登拝の先達として当地に来ていたことは容易に想像できそうです。



 ところでゲーター祭りでは、大晦日の夕刻から輪を作る神事が始まり、それに合わせて薬師堂でも経文の読経が始まります。また神島の最高峰は灯明山ですが鳥羽富士とも呼ばれていました。鳥羽市内の九鬼城の本丸跡からは、神島がくっきりと富士型に見えています。二年前にゲーター祭りを見た私の私見ですが、未明の朝、東の浜で大きな輪を数え切れない数の竹竿で持ち上げる祭りの様子は、輪が富士山の火口、無数の竹竿が富士の裾野を表現しているように見えました。その時は残念ながら富士を拝むことは出来ませんでしたが、天気が良ければ東の海上に富士のシルエットが見えるということでした。

 改めて神島のゲーター祭りの中止、本当に残念でなりません。


参考文献

・甲賀市史編さん委員会「甲賀市史 第三巻」、2014年

・甲賀市史編さん委員会「甲賀市史 第六巻」、2009年

・鳥羽市史編さん室編「鳥羽市史」、1991年

・内川隆志「工芸品に見る富士山意匠」

 収録「特別展 富士山、その景観と信仰芸術」國學院大學博物館、2014年

・山形隆司「16・17世紀の尾張国知多郡の富士信仰ー富士山登拝と浅間社の勧請」

 収録「知多半島の歴史と現在」日本福祉大学知多半島総合研究、2015年

・元興寺文化財研究所「特別展図録 つどう いのる たべる 奈良の講と神仏」、2003年

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