24 鳥羽国崎と遠州大須賀村

 静岡県掛川市大須賀村の津波除けとされる清明塚は、前回投稿した国崎の浅間さんと非常に類似点が多い。

 この塚には、こんな話がある。

 千余年も昔のこと、あるとき荒波で聞こえた遠州大須賀(掛川市)の地に、陰陽師として名高い安倍晴明が訪れた。波の害に苦しめられていた村人たちは、津波と波の音封じをしてもらえないものかと晴明に願い出た。
 晴明は懇願されたので、津波封じに金三百、波の音封じに金五百あれば、願いに応えようと言った。
 村人たちは苦心惨澹の思いで金を工面したが、どうにも金三百しか集まらなかった。それでも、とにかく津波封じだけでもと言う村人たちの乞いに応じて、晴明は村人に小豆色の小石を積み上げさせ塚を作り祈祷を行なった。

 これ以後、他の村々が津波にさらわれたときも、この地だけは塚より陸へ波がくることは無かった。しかし波音は消してもらえなかったため、今でも遠州灘一帯では、荒れた波の音が響き渡っている。

 時を経て、この晴明塚は、人々の心の拠りところとなり、この塚に祈願すると疫病にかからないと信じられるようになった。病気にかからないようにこの塚で祈願した後、小豆色の石1個を借りて持ち帰り、無事を報告するお礼参りの時は石をもう1つ持参して、2個にして返した。すると返した石がどんな色の石でも小豆色に変わった、と言い伝えられており、遠州七不思議の1つに数えられている。疫病の流行期には遠近から多数参詣者があったといわれている。

国崎の浅間さん。石は小粒だが小豆色である。

 まず清明塚に小豆色の石が積み上げられていることに驚く。その石はもともと、晴明の指示で津波避けに村人が積んだものといわれているが、石は国崎の浅間さんの周囲に置かれているのと同じに小豆色である。また前回の投稿でも、国崎ではその小豆色の石で体の痛いところを撫でると治るという、無病息災信仰が存在していることに触れたのだが、掛川でも同じような疫病役除信仰が存在している。しかも掛川の治療後の習慣も、痛みが治ると、治療に使った石と、新しい石と、ふたつの石を塚にお返しに置いておくことになっていて、国崎と非常に似ている。

 1962年の清明塚に関する雑誌「東海展望」の現地取材記録では、付近のほとんどの村人は塚のことを「清明さん」と呼び、あるお婆さんは、「どんな病気でもなおして下さったそうな。悪い病気にかかった人はあの石を借りていって返すとき倍にして返したもんだ」、と実際に話しているが、筆者の取材の状況と似ていて面白い。また、大正のはじめ頃は遠近からの参詣者が多く、付近の子供たちは、そのおさい銭を拾い集めたと、当時の繁盛を伝える話を取材している。

 当初は大須賀村では無病息災の噂が広がり、たくさんの人が訪れたとあるので、現代になり国崎の者が掛川に訪れ、国崎にも伝えたのだろうと考えたが、志摩地域の海女には、前稿のようにセーマン・ドーマンという陰陽道の伝承が今も生きており、また国崎は古くから伊勢神宮の神戸で、神宮自体が陰陽五行の影響を強く受けていること、一方大須賀では、昔から漁船の進水祝いや大猟祈願のために海を渡って伊勢参りにやってきており文化的交流があったということ、それから晴明塚から北に行った高台に大日堂の存在も確認でき、掛川周辺はもともと大日堂の名前を聞き、村山修験の痕跡を見るとなると、ことはそう簡単ではない。

大須賀の浜に続く浜岡の砂浜と釣り人。遠くには浜岡原発。

 内容は同じだが、少し違う話もある。

 「ここを訪れた晴明が占いで、三日以内に大津波で数千人が溺死すると告げた。村人の嘆願により、晴明は砂で小山を作り赤い石を置いて、祈り、立ち去った。以来、大津波がこの村を襲うことはなかった。」

 最初の話も伝える石が小豆色、もしくは赤色というのは、祝いのときに小豆で赤飯を炊くのが厄除けであることと同じである。赤色というのは、厄を祓う色であり、晴明が小豆色の石を集めさせたのは、津波厄を除けるためだったのだろう。

 そしてこの類型話の中で少し注目したいのは、話が海岸であることを前提にしているのだが、晴明が「砂で小山」を作ったということである。

志島の浅間さん。富士に見立てた砂山を奉る。(写真:江崎満氏)

 さらに他の類型伝承では漢文で、「石をならべ、活砂を山のごとく築き塚となしぬ。残らず赤石を並べて置きたり。」とある。この読み下しは、「・・砂を活かし山のごとく築き塚と・・」、とはならないだろうか。

 伝承は伝承でしかないのだが、浅間さんという富士火山信仰、災害信仰という脈絡の中で考えると、海岸の砂で小山を作る作業というのは、自然に志摩市志島の浅間さんを思い出す。清明の砂山は、あの志島の浅間さん信者が富士型に砂山を作っていたことを連想させる。

 文献資料として重要なはずの「遠江古蹟図絵」の絵は、描かれたその塚の大きさから、江戸で流行していた富士講の富士塚の影響を受けているようであるし、掛川の伝承自体、平安期の「大鏡」以降の安倍清明英雄化の流れの中で創作されたものとも想定できる。現在残る文献的資料に、価値を求めることは難しい。

 そう考えると、小豆色の石、無病息災の伝承、砂山の儀式、という現在も行われている民俗的行事と、遠州灘と熊野灘、同じ東南海トラフの地震を150年毎に受けている地域性から考えてみて、両地域が同じ災害文化を持っていると考えてもおかしくはない。清明ではなく、津波塚として村人ら自らが小山を作り、津波除けの地鎮祭を、浅間さんと同じように、富士火山信仰の文化の中で行っていたと考えることはできないだろうか。志島でも、赤い石ではないが砂山の上に砂団子を乗せ、その砂山の「富士」を拝んでいる。

 ちなみに、少し離れるが、遠州最大の河川、天竜川の河口は、東南海地震の津波来襲時にはおよそ5キロを津波が遡り、その津波は周辺平地を大きく浸水させる予想がハザードマップに記されている。これも考え過ぎかもしれないが、その周辺には浅間神社の点在が多い気がしている。

 いまのところ、少なくとも伊勢志摩国崎と掛川市大須賀村は、同じ東南海トラフに面した、”津波繋がり”であるということだけは、はっきりしている。


引用・参考文献

・「大須賀町誌」大須賀町、1980年

・藤長庚・編集/神谷昌志・著「遠江古蹟図絵」、1991年

・東海展望「赤石塚」、1962年12月、1977年4月号

・吉野裕子「隠された神々・古代信仰と陰陽五行」講談社、1975年

・国土交通省中部地方整備局浜松河川国道事務所「天竜川浸水想定区域」

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