4 方座浦浅間祭 中

#4

  昼休みが終ると、いよいよ浅間山への弊上げである。魚港の中心、集魚場の建物に立て掛けられていた弊を持ち上げ、弊の根本を海に浸す(ヘイゴオリ)。弊全体を清めるのではなく、地鎮の要である弊の根本を清めたようである。

 

 祭りのクライマックス。幣は立てたまま祭衆で競うように浅間山に引き上げられ、そこにある祠の側に据え置かれしっかりと縛り付けられる。幣は鹿島神宮の 要石のように地鎮の要として地中にいる鯰が暴れるのを押さえ、浦全体を地震津波から守っているように見える。幣に付けられている髭のようなひだは、御幣に 付ける麻の”ぬさ”であるが、神宮の馬の毛とも考えられないだろうか。江戸時代には神宮の馬の毛を見につけた者は、地震から救われるという噂が広がった。

 方座浦の浅間祭りは修験道の影響も受けて厳しい崖のような道を登っていく。大峰山の修行の一部を再現しているのである。鳥居から女人禁制なのは大峰山上修験の慣わしである。

  幣上げの道中は険しい崖を登るので、その代わりに、祠の位置を、低いが浦を近くで眺められる140m地点に変更したと思われる。今の祠の位置は、昔の頂上 までの中間地点で休憩地点でもあって何らかの祭事を行っていたのかもしれない。本当の祠の位置は、老人は「お空」と呼ぶ、浅間山の頂上260mである。

 昔は今よりさらに屈強な者達で競い、頂上の浅間さんを目指しただろう。今は村の者たちは一緒に登らないが、修験道が習合するまでは、現在の崖の道より緩やかな山を周回する道を歩き、年寄りや女、子供らも途中や頂上で、祭衆となっている男達に声援を送ったに違いない。

 古和浦の浅間祭りでは、今でも子供達が稚児となり、走って浅間山に登る。昔の方座浦の人々も、皆で海を見下ろす浅間山の頂上に登ったと想像する。そして固唾を呑んで、大幣、小幣のどちらが先に頂上に達するのかを見て、歓声を上げていたに違いない。

 大弊と小弊が競って頂上を目指すというのは、津波が来たら急いで高台に逃げるという教訓の暗示であるともいえる。そしてその儀式を通して浦の人々は、皆で浅間山に登り、津波から逃れる避難の訓練をしていたと思われる。

  浅間さんの祠が本当の山の頂上にあった頃、村の者達は頂上に立ち、風を感じて四方に広がる展望を確かめただろう。西には普段は付き合いのなかった古和浦浅間山の頂上に据えられた幣が見えた。

  古和浦の浅間さんも元は今の山の中腹ではなく、標高215mのその頂上にあった。今でも頂上には立派な祠が残っている。現在では熊野灘に面する各々の浦の 浅間祭が行われる日程はまちまちだが、基本的に浅間さんは南の紀北町の方から始まり、北に向かって順に行われている。古和浦の浅間さんは、方座浦の直前に 行われている。

 幣が上がっているということは、浅間祭りが終ったことを隣の浦に知らせているのである。南島の浦々はそれぞれが漁場の境界を争い別々の文化を育んでいたが、一方では浅間さんを共有する一体となった防災共同体でもあったと考える。


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